荻野吟子(読み)オギノギンコ

デジタル大辞泉 「荻野吟子」の意味・読み・例文・類語

おぎの‐ぎんこ〔をぎの‐〕【荻野吟子】

[1851~1913]医師婦人運動家。武蔵の生まれ。明治18年(1885)医術開業試験に合格、近代日本最初女性医師となる。日本キリスト教婦人矯風きょうふう会風俗部長、大日本婦人衛生会幹事など社会運動にも従事した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「荻野吟子」の意味・わかりやすい解説

荻野吟子
おぎのぎんこ
(1851―1913)

近代日本最初の公認女性医師。女性運動にも携わって女性の地位向上に努めた。埼玉県生まれ。最初の結婚で夫から淋病(りんびょう)を移され、東京の順天堂医院に受診した。その際、異性に診察されることに抵抗を感じ、医師になる決心をしたが、先例がなく、苦難の道を歩んだ。石黒忠悳(いしぐろただのり)、長与専斎(ながよせんさい)らの理解により、1885年(明治18)医術開業試験の後期試験に合格、日本における女性の第一号医籍登録者となった。東京で開業ののち、2番目の夫の志方之善(しかたゆきよし)(1863/1864―1905)とともに北海道に渡り(1894)、瀬棚(せたな)郡瀬棚(現、久遠(くどお)郡せたな町)で開業した。

 のち夫の死去により、1908年(明治41)にふたたび東京に移り、医業に従事した。この間、日本キリスト教婦人矯風会(きょうふうかい)風俗部長をはじめ、大日本婦人衛生会幹事、明治女学校教師兼校医などを歴任し、瀬棚でも婦人会を組織した。生地の埼玉県熊谷(くまがや)市およびせたな町に顕彰碑がある。

[長門谷洋治]

『荻野吟子女史顕彰碑建設期成会編『荻野吟子』(1967・瀬棚町)』『渡辺淳一著『花埋み』(1970・河出書房新社/集英社文庫)』『奈良原春作著『荻野吟子――実録 日本の女医第一号』(1984・国書刊行会)』


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改訂新版 世界大百科事典 「荻野吟子」の意味・わかりやすい解説

荻野吟子 (おぎのぎんこ)
生没年:1851-1913(嘉永4-大正2)

日本近代女医の草分け。婦人運動にも関与し婦人の地位向上に寄与した。埼玉県出身。自分が病気(淋病)になったときの体験から女性の医者の必要性を痛感し,女医になることを決心したが,先例がないため苦難の道をあゆんだ。東京の皇漢医井上頼圀の門を経て,東京女子師範学校入学,1879年石黒忠悳(ただのり)の口ききにより東京下谷にある私立医学校好寿院(高階経徳)に入り82年これを終えたが,内務省の医術開業試験受験を拒否される。長与専斎らの努力で84年前期試験を受験して合格,翌85年には後期試験にも合格し,女子では日本最初の医籍登録者となる。86年基督(キリスト)教婦人矯風会風俗部長となったのをはじめ,大日本婦人衛生会幹事,明治女学校教師兼校医などを歴任。94年2人目の夫,志方之善とともに北海道に渡り,瀬棚郡瀬棚(現せたな町)に開業する。同地でも婦人会を組織したりしたが,1908年東京に移り,江東新小梅町で開業。しかし医業は振るわず,不遇のうちに没した。現在,せたな町に顕彰碑がある。
執筆者:

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20世紀日本人名事典 「荻野吟子」の解説

荻野 吟子
オギノ ギンコ

明治期の医師,婦人解放運動家 女医第1号。



生年
嘉永4年3月3日(1851年)

没年
大正2(1913)年6月23日

出生地
武蔵国幡羅郡俵瀬村(現・埼玉県大里郡妻沼町俵瀬)

学歴〔年〕
東京女子師範卒,好寿院(医学校)修了

経歴
17歳で上川上村(熊谷市)の地主と結婚、2年後婦人病がもとで離婚。男性医師の治療を受ける際の屈辱感から“女性のための女医”になることを決意。両宜塾で学び、23歳の時上京。明治18年34歳で医師開業試験に合格、わが国初の女医となる。東京・湯島で開業。23年40歳の時24歳のキリスト教伝道助手・志方之善と結婚、27年夫と共に北海道に渡り、瀬棚郡瀬棚村で開業、地域医療にとりくむ。夫の死後、41年東京に戻り江東新小梅町で開業した。基督教婦人矯風会風俗部長、明治女学校教師兼校医など歴任。婦人解放運動にも積極的に関わった。渡辺淳一の小説「花埋み」のモデルといわれる。

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朝日日本歴史人物事典 「荻野吟子」の解説

荻野吟子

没年:大正2.6.23(1913)
生年:嘉永4.3.3(1851.4.4)
明治時代の医者,婦人運動家。日本の近代女性医師の第1号。武蔵国大里郡泰村(埼玉県妻沼町)の代々庄屋を務めた旧家の生まれ。16歳で結婚。夫に淋病をうつされ(異説もある),離婚される。その受療の体験から医を志した。東京女子師範学校(1期生)を経て,東京下谷の好寿院で医学を学んだが,当初内務省の医術開業試験受験を前例がないとの理由で拒否された。当時の内務省衛生局長長与専斎らの尽力もあって,明治18(1885)年に合格し,医籍に登録された最初の女性となった。東京湯島で開業。23年牧師の志方之善と再婚し,27年夫と共に北海道に渡り,瀬棚郡瀬棚村で開業。開拓事業にいどむが,38年夫が死去。41年東京に戻り江東新小梅町で開業したが,晩年は不遇であった。基督教婦人矯風会風俗部長,大日本婦人衛生会幹事,明治女学校教師兼校医などを歴任。その幅広い活動はアメリカ最初の女医エリザベス・ブラックウェルと通じるものがある。瀬棚町と妻沼町に碑がある。<参考文献>北海道医師会医政史編纂委員会編『荻野吟子』

(長門谷洋治)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「荻野吟子」の解説

荻野吟子 おぎの-ぎんこ

1851-1913 明治時代の医師。
嘉永(かえい)4年3月3日生まれ。16歳で結婚し,2年後病気になり離婚。闘病体験から女医の必要性を痛感し,明治18年女性では日本最初の医師の資格をえて,東京湯島で開業。翌年洗礼をうける。23年牧師志方之善と再婚,北海道瀬棚村で開業し,伝道もおこなう。夫の死後ふたたび東京で医院をひらいた。大正2年6月23日死去。63歳。武蔵(むさし)大里郡(埼玉県)出身。好寿院卒。
【格言など】医は女子に適せり。啻(ただ)に適すというのみにあらず。寧ろ女子特有の天職なり

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百科事典マイペディア 「荻野吟子」の意味・わかりやすい解説

荻野吟子【おぎのぎんこ】

日本近代の女医1号。埼玉県出身。クリスチャン。病気(淋病)になって離婚し,闘病のなかで女医の必要性を痛感。1873年漢方医井上来頼圀に入門,東京女子師範学校を経て,石黒直悳(ただのり)の尽力で私立医学校好寿院に入学し1882年卒業。内務省の医術開業試験の受験を拒否されるなどの困難を経て合格,1885年日本で最初の医籍登録者となる。1894年北海道瀬棚で開業,1908年東京市本所区に開業。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「荻野吟子」の解説

荻野吟子
おぎのぎんこ

1851.3.3~1913.6.23

明治期の医者。日本最初の女性の医師資格試験合格者で,女医第1号とよばれる。武蔵国大里郡生れ。16歳で結婚するが,夫に性病をうつされて離婚。治療中に医師を志して1875年(明治8)東京女子師範に入学,卒業後私立医学校好寿院で学ぶ。85年に医師資格試験に合格し,荻野医院を開業。86年に洗礼をうけ,日本キリスト教婦人矯風会・大日本婦人衛生会の活動にも参加。90年青年牧師志方之善(しかたこれよし)と結婚し,94年に北海道に渡り開業。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

367日誕生日大事典 「荻野吟子」の解説

荻野 吟子 (おぎの ぎんこ)

生年月日:1851年3月3日
明治時代の医師
1913年没

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