荻野村(読み)おぎのむら

日本歴史地名大系 「荻野村」の解説

荻野村
おぎのむら

[現在地名]伊丹市荻野一―八丁目・荻野・瑞原みずはら三丁目・北野きたの六丁目・荒牧あらまき

鴻池こうのいけ村の東に位置し、天神てんじん川の両岸地域。慶長国絵図や京都府立総合資料館蔵正保国絵図では「萩野村」とあるが、大分県竹田市立図書館蔵正保国絵図では荻ノ村とあり、「萩」は誤記と思われる。文禄三年(一五九四)鴻池村・荒牧村と一括で検地を受けた。慶長国絵図には集落が描かれているが石高は両村と一村扱い(→鴻池村。村切の正確な年代は未詳だが、文禄検地帳が焼失したため寛永九年(一六三二)に名寄帳を作成して年貢徴収を行い、同一三年新田検地を受けており(延享四年「村書上帳」荻野部落有文書)、この頃村切が完了したとみられる。


荻野村
おぎのむら

[現在地名]高郷村上郷かみごう

吹屋ふきや村の南西、阿賀川右岸に位置し、北西は耶麻郡の利田かがた村。古く当地は湿地帯で、蘆・荻などが繁茂する土地であったことが村名の由来という(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に荻野とみえ、高四〇石余。寛永一一年(一六三四)会津藩主加藤明成の重臣守岡主馬から当地の肝煎武藤蔵人に宛てた書状(新編会津風土記)には「山之郡小布瀬郷荻野村」とあり、当村の諸役が向こう三ヵ年免除された。


荻野村
おぎのむら

[現在地名]佐賀市嘉瀬町かせまち大字荻野字荻野

村域はかなり広く、西は嘉瀬川、北は江里えり村、東は江頭えがしら村・北島きたじま村・本町もとまち村、南は上嘉瀬村に接する。堀の多い水田地帯で、文化一四年(一八一七)の郷村帳によると稲崎・水上ケ・土井副・中通り・あしくた・須崎・北五反田・西五反田・千年の地名が記されている。正保絵図に村名がみえる。藩政初期、上嘉瀬村とともに佐賀藩の親類同格である多久家の所領であった。


荻野村
おぎのむら

[現在地名]八日市場市荻野

平木ひらぎ村の東に位置し、東は泉川いずみがわ(現旭市)。東部を念仏ねんぶつ川が流れる。寛永二年(一六二五)知行宛行状にみえる匝瑳そうさ郡萩野村は当村のこととみられ、村内一八〇石が旗本菅沼領となっている。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では平木組に所属。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一八〇石、菅沼領で、村高・領主とも幕末まで変わらない。弘化二年(一八四五)の関東取締出役控帳では家数二五。本郷ほんごうに真言宗智山派弥勒院がある。


荻野村
おぎのむら

[現在地名]上越市諏訪すわ

高森たかもり村の東に位置し多柄たがら道が通る。文禄(一五九二―九五)頃の頸城郡絵図に「北条能登分おきの村 中」とみえ、本納二九石・縄高一〇七石三斗二升四合六勺、家九軒・二七人。正保国絵図によると高一一八石余。天和三年郷帳では高一六三石余。近世末には幕府領


荻野村
おぎのむら

[現在地名]横須賀市荻野

北・西・南の三方を長坂ながさか村に囲まれ、東は大田和おおたわ村に接する小村。「吾妻鏡」建保元年(一二一三)五月六日条によれば、建暦三年(一二一三)和田義盛の乱に義盛にくみして討たれた武士の交名中に「をきのゝ八郎」がみえ、「をきのゝ弥八郎 同太郎」は捕らえられた。彼らはこの地の住人であったと思われる。小田原衆所領役帳に小林新次郎「拾六貫八拾五文 長坂内(ママ)野分」とある。


荻野村
おぎのむら

[現在地名]弥彦村荻野

西にし川左岸にあり、東は平野ひらの村、南西は矢作やはぎ村。慶安四年(一六五一)頃矢作村の皆川孫右衛門によって開発に着手され、貞享二年(一六八五)頃佐五十郎千石新田を荻野と改称。元禄郷帳に矢作村枝郷として荻野新田村とみえ、高八九石八斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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