荻野検校(読み)おぎのけんぎょう

改訂新版 世界大百科事典 「荻野検校」の意味・わかりやすい解説

荻野検校 (おぎのけんぎょう)
生没年:1731-1801(享保16-享和1)

江戸中期,京都名古屋で活躍した前田流の平曲家。平曲譜本の決定版ともいうべき《平家正節(まぶし)》の編纂者。広島出身生年は1737年説あり)。名は知一。幼時失明,鍼術を学び,23歳で京都に上り,前田流平曲を寺尾勾当と亀田意一に学ぶ。しかし亀田は平曲の大・小秘事(他のすべての平曲をおさめた者のみに伝授される曲)を教えずして去ったため,知一は波多野流河瀬検校に師事して大・小秘事を習得した。このころ(31歳ころ)から知一の平曲家としての名声は高まり,河瀬検校没後は石塚検校に波多野流を伝えてその断絶の危機を救った。1771年(明和8)名古屋に移住,種々の譜本を校合,吟味の末,76年(安永5)すぐれた前田流平曲の譜本《平家正節》を完成した。その功によって検校に昇進したと伝えられている。その後一人娘が名古屋藩士の尾崎家に嫁いだこともあり,名古屋に永住
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「荻野検校」の意味・わかりやすい解説

荻野検校
おぎのけんぎょう

[生]享保16(1731).2. 安芸
[没]享和1(1801).6.22. 名古屋
盲人の音楽家。都名 (いちな) は知一。宝暦3 (1753) 年京都に出て平曲を前田流の寺尾勾当から習得,その後,波多野流の河瀬検校から小秘事,大秘事伝承を受けた。明和8 (71) 年名古屋に移住。従来楽譜の記譜法を改良して,『平家正節 (へいけまぶし) 』を編集し,現代に伝えられる平曲の規範となるものを大成した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「荻野検校」の解説

荻野検校 おぎのけんぎょう

1731-1801 江戸時代中期-後期の平曲家(平家琵琶家)。
享保(きょうほう)16年2月生まれ。おさないころ失明。前田流平曲を京都で寺尾勾当(こうとう)に,のち波多野流を河瀬検校にまなぶ。名古屋に移住し,前田流平曲の定本「平家正節(まぶし)」を完成させた。享和元年6月22日死去。71歳。安芸(あき)(広島県)出身。名は知一。

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百科事典マイペディア 「荻野検校」の意味・わかりやすい解説

荻野検校【おぎのけんぎょう】

江戸中期の平曲家。広島生れ。名は知一。6歳ころに失明。上洛して寺尾勾当に前田流を学び,のち河瀬検校から波多野流を学んだ。後年名古屋に移り,同地の平曲興隆を導いた。1776年に著した《平家正節(へいけまぶし)》は,その後の平曲伝承の規範となった。

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世界大百科事典(旧版)内の荻野検校の言及

【平家正節】より

…正節は〈しょうせつ〉とも読む。江戸時代中期,前田流の荻野検校(名は知一)が編纂した。平曲は江戸時代に入り,晴眼のしろうと平曲愛好家が多くなり,なかでも前田流は全国に広まった。…

【前田流】より

…なかでも津軽藩は熱心で,数少ない平曲の伝承者の一人であった館山甲午(1894‐1989)の祖は津軽藩士である。江戸中期に活躍した荻野検校は名古屋で譜本《平家正節(へいけまぶし)》を作り,これが前田流の正本として全国に広まった。名古屋には荻野検校の系統をひく井野川幸次(1904‐85),土居崎正富(1920‐ ),三品正保(1920‐87)が前田流を伝えている。…

※「荻野検校」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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