菊原琴治(読み)きくはらことじ

改訂新版 世界大百科事典 「菊原琴治」の意味・わかりやすい解説

菊原琴治 (きくはらことじ)
生没年:1878-1944(明治11-昭和19)

盲人地歌箏曲家。大阪出身。本名は布原徳太郎。2世菊原吉寿一(後名菊植明琴,1835-1913)の養子となり,師事のかたわら,菊仲繁寿一から野川流三味線組歌を皆伝される。菊筋の代表者として,昭和前期まで活躍。大阪市立盲啞学校教員,当道音楽会本部長などを歴任。文部省に女学校箏曲科設置の陳情運動も行い,その教員養成を目的とした箏曲音楽学校の初代校長を務めた。晩年は三味線組歌の保存と普及に力を入れ,録音も行ったが,病没遺志は娘の初子(1899-2001,重要無形文化財)が継ぎ,父以来の琴友会を率いて,古典の保存と伝承に尽力している。琴治は一方で,新感覚を盛り込んだ創作も行い,〈菊原四つ物〉と称される《摘草》《最中の月》《雲の峰》《銀世界》のほか,《春琴抄》《秋風辞》などが有名。その他,《六段》《新高砂》への三弦手付けや,《玉川》《越後獅子》などへの箏手付けは,現在大阪でよく用いられている。一時期,谷崎潤一郎に稽古をしたことから,谷崎作品に多くの影響を与えている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「菊原琴治」の意味・わかりやすい解説

菊原琴治
きくはらことじ

[生]1878.12.25.
[没]1944.3.25.
地歌箏曲家。本名布原徳太郎。4歳で失明して2世菊原の菊植明琴吉寿一の養子となり師事。2世菊仲繁寿一にも師事し,野川流三弦本手と生田流箏曲を伝承。当道音楽会本部長,箏曲音楽学校初代校長などを務め,文部省に女学校箏曲科設置を陳情。琴友会を主宰し,晩年には三弦本手の普及に努めた。作品に「菊原の四つ物」といわれる『摘草』『雲の峰』『最中の月』『銀世界』のほか,『春琴抄』『秋風の辞』などがあり,三弦曲への箏の手付も多数ある。娘の菊原初子 (1899~2001) は関西における地歌演奏の代表者として,1979年重要無形文化財保持者に認定されている。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「菊原琴治」の解説

菊原琴治 きくはら-ことじ

1878-1944 明治-昭和時代前期の地歌・箏曲(そうきょく)家。
明治11年12月25日生まれ。菊原初子の父。4歳で失明,菊植明琴の養子となる。2代菊仲繁寿一(しげじゅいち)から野川流三味線組歌を伝承し,関西箏曲界で活躍。昭和11年箏曲音楽学校を創立した。昭和19年3月25日死去。67歳。大阪出身。本名は布原徳太郎。作品に「摘草」「最中の月」など。

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