地歌(読み)ジウタ

デジタル大辞泉 「地歌」の意味・読み・例文・類語

じ‐うた〔ヂ‐〕【地歌/地唄】

ある地方だけで歌われている俗謡。土地の歌。
三味線声曲の一種。江戸初期に発生。上方かみがたを中心に、盲人音楽家によって伝承され、生田流箏曲そうきょくと結びついて、家庭音楽としても普及した。上方歌。法師歌。京歌。
[補説]書名別項。→地唄

じ‐うた〔ヂ‐〕【地歌】

和歌の百首などで、趣向をこらすことなく軽く詠んだ歌。平凡な歌で秀歌を際立たせる働きがあるところからいわれる。

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精選版 日本国語大辞典 「地歌」の意味・読み・例文・類語

じ‐うたヂ‥【地歌・地唄】

  1. 〘 名詞 〙
  2. その地方だけでうたわれている俗歌。俗謡。
    1. [初出の実例]「木の本に落ては蝉の地哥哉〈方寸〉」(出典:俳諧・境海草(1660)夏)
  3. ( 地唄 ) 江戸唄に対して、上方唄を地元の人が、自分たちの土地の唄の意で呼んだもの。広義には、三味線組歌、長歌、端歌、手事物、浄瑠璃物、作物(さくもの)(=おどけ物)などが含まれる。検校(けんぎょう)、勾当(こうとう)などの盲人音楽家によって作曲伝承されたので、法師歌ともいい、上方、特に京で育ったので、上方唄または京唄ともいう。内面的で、落ち着きがあり、品がよい。三味線伴奏として作曲されたが、端歌や手事物や長歌には箏の手をあとで作曲して合奏するものが多く、胡弓か尺八も加わって奏されることがある。現在では三味線には中棹(ちゅうざお)を用いる。〔随筆・守貞漫稿(1837‐53)〕
  4. 人形浄瑠璃で、の曲節をとり入れた部分をいう語。「歌」と記譜する場合が多い。
  5. 踊りに合わせてうたう唄。
    1. [初出の実例]「折から隣家で踊りの地哥(ヂウタ)、稽古と見えて足拍子」(出典:人情本・春色辰巳園(1833‐35)三)

じ‐うたヂ‥【地歌】

  1. 〘 名詞 〙 趣向をこらすことなく、軽い気持で詠んだ和歌。平凡な和歌。
    1. [初出の実例]「百首などのあまりに地哥もなく見えしこそ、かへりては難とも」(出典:後鳥羽院御口伝(1212‐27頃))

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「地歌」の意味・わかりやすい解説

地歌
じうた

三味線音楽の一種目。地唄(じうた)とも書く。16世紀末には京坂の地で成立しており、その後、当道職屋敷制度に属する検校(けんぎょう)、勾当(こうとう)らの盲人職業音楽家によって、日本音楽の一大ジャンルに発展した。近年になるまでは、もっぱら家庭内や座敷で演奏され、江戸では上方唄(かみがたうた)とも称した。本来は三絃(さんげん)(地歌における三味線の呼称)を伴って歌う音楽であったが、これら音楽家は箏(こと)や胡弓(こきゅう)もあわせ弾くところから、やがてそれらの楽器との合奏も行われるようになった。とくに手事物(てごともの)の曲では、明治以後、三絃・箏・尺八の三曲合奏で演奏されるのが一般化した。その一方では、本来の地歌以外の芝居歌や浄瑠璃(じょうるり)などを吸収して、豊富な曲種をもつに至った。なお、地唄舞と称する、地歌を地(伴奏音楽)として舞う舞踊がある。普通は端歌(はうた)物を演奏するが、ときに手事部分を短縮した手事物を用いることもある。

[井野辺潔]

曲種と歴史

最古の曲種は、16世紀末から17世紀初めにかけて石村(いしむら)・虎沢(とらざわ)検校(?―1654)によってつくられた「三味線組歌」の本手組(ほんでぐみ)(表(おもて)組)である。これには『琉球(りゅうきゅう)組』など7曲がある。その後、虎沢・柳川(やながわ)検校(?―1680)らにより破手(はで)組ができた。現在、表・破手・裏組・中許(なかゆるし)・大許(奥組)に分類され、柳川流では数曲が、野川流では全32曲が伝えられている。標準的な形は、互いに一貫性のない当時の流行(はやり)唄や躍(おどり)歌など6、7首の短い歌を組み合わせたもので、緩から急へテンポが移ってゆく。間投詞を挿入したり、表組では双撥(もろばち)の音型を反覆して弾いたりするなどの特徴がある。

 こうした組歌に対して、一貫した内容の一つの歌である「長歌物」が出現する。佐山(?―1694)・浅利(?―1698)・市川(生没年不詳)・小野川(生没年不詳)・生田(いくた)・野川(?―1717)・継橋(つぐはし)(生没年不詳)・歌木(生没年不詳)・藤林(生没年不詳)・藤永検校(生没年不詳)、朝妻勾当(?―1690)らにより作曲された。これらのうちには、曲中に長い合の手をもつものがあり、手事物に分類されることもある。相前後して、京坂の歌舞伎(かぶき)の舞台で歌われた曲が地歌に摂取され、伝えられているものもある。これらの「芝居歌」は岸野次郎三(きしのじろさ)(生没年不詳)、湖出(こいで)金四郎(?―1720)、山本喜市(生没年不詳)ら、主として晴眼者の手になった。また、一部は芝居歌とも重複するが、能を題材とした「謡い物」の曲が岸野次郎三、藤尾勾当(生没年不詳)らによってつくられた。その一方、歌木・玉岡検校(生没年不詳)、鶴山(つるやま)(生没年不詳)・峰崎勾当らは、短いが感性豊かで芸術性に富む「端歌物」を生み出した。峰崎の『雪』をはじめ地歌の代表的名曲が少なくない。なお、芝居歌や謡物を含めて、広義の端歌物とする場合もある。

 さらには長歌などの合の手を長大化し、前後に歌の部分をもつ、すなわち前歌(まえうた)―手事―後歌(あとうた)の楽曲形式で構成する「手事物」が盛んとなる。大坂の峰崎・三ッ橋勾当(生没年不詳)ら、京都の松浦・菊岡・光崎(みつざき)検校、石川勾当(生没年不詳)らは、名曲の数々を作曲した。なかでも文化・文政(ぶんかぶんせい)期(1804~1830)以降の、京都で生まれた一連の優美な曲は、京流手事物とよばれ、今日まで盛んに演奏されてきた。これらのうちには、前弾(まえびき)―前歌―手事―中歌―手事―後歌というふうに、手事が2回、3回と現れる大規模な曲も出現した。手事自体もツナギやマクラで始まり、手事のあとチラシがつく複雑な形式をとったりする。そして、たいていは箏の手が付けられて合奏するのが普通となった。八重崎(やえざき)検校を筆頭に、市浦(生没年不詳)・河原崎検校(生没年不詳)らは、箏の手付けで後世に名前を残した。

 地歌のなかには、浄瑠璃のいくつかが吸収されているが、これらは、今日では流派としては滅亡しているので貴重である。そうした「浄瑠璃物」としては永閑節(えいかんぶし)や、鶴山勾当らがその旋律を援用した繁太夫(しげたゆう)節、江戸半太夫の旋律を継承した曽我(そが)物を主とする半太夫(はんだゆう)節が代表的である。以上のほかに、滑稽(こっけい)な内容で、即興性の強い語物風の「作物(さくもの)」(おどけもの)もある。このように数多の曲種を生んで発展した地歌であったが、幕末ごろからは急速に創造力を低下させ、やがて伝承時代へ入っていった。

[井野辺潔]

流派と演奏

柳川検校に始まる柳川流が京都で、野川検校に始まる野川流が大阪を中心に伝統を伝えている。さらに京都では、上(かみ)派、下(しも)派、伏見(ふしみ)派といった居住地による別があり、大阪でも北派、南派とか、菊筋、中筋、富筋、楯(たて)筋などで伝承を幾分異にしている。そのほか九州系も有力で、東京へは明治以後に、これら各系統が進出していった。

 地歌が成立した当初は、棹(さお)の細い三絃であったが、しだいに各地独自のものに分化していった。とくに大阪では、先端が薄くて大きく開いた撥(ばち)で弾き、台広(だいびろ)の駒(こま)を使用して、義太夫の三味線に近い音色が好まれた。一方、京都では現在も一部の演奏家の間で、ごく細い棹で、八ッ乳(ち)の皮を張り、小さな京撥で弾く、独特の音色をもつ京三味線(柳川三味線)が用いられている。しかし、近年は九州系の三絃がほぼ全国を制覇している。その結果、特色ある各地の個性的音色が失われることにもなった。

 なお、地歌の演奏家としては、1955年(昭和30)に生田流の富崎春昇(しゅんしょう)が重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されたのを初めに、東京の初世富山清琴(せいきん)(現、清翁(せいおう))と大阪の菊原初子(はつこ)、生田流の藤井久仁江(1930/1933―2006)がそれぞれ認定されている。

[井野辺潔]

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改訂新版 世界大百科事典 「地歌」の意味・わかりやすい解説

地歌 (じうた)

三味線音楽の一種。かつては盲人音楽家を伝承・教習の専業者とし,箏曲とも関連しつつ,おもに京都,大坂を中心に発展してきたもので,室内音楽として最も普及した芸術音楽。上方の舞の地(伴奏)に用いられる楽曲もある。古くは盲人の扱った三味線音楽を総称して〈弦(絃)曲〉ともいい,語り物の〈浄瑠璃〉に対して,単に〈歌(うた)〉とも〈歌曲〉ともいったが,江戸ではこれを〈上方歌(唄)〉ともいい,また,専業者の関係から〈法師歌〉ということもあった。文化(1804-18)ころに上方に江戸の三味線音楽が流入し,それらを〈江戸歌〉と総称するに至って,これに対して〈地歌〉と呼ぶようになった。《守貞謾(漫)稿》には,〈地唄〉と表記されているが,関西では〈唄〉の字の用字例は少ない。〈地歌〉の語の公式使用例の最初は,1875年(明治8)の〈地歌業仲間〉(のちの当道音楽会)の結成時である。地歌による上方舞を〈地唄舞〉と命名したのは,東京の米川文子であるが,上方舞は地歌のみによらないし,すべての地歌が舞に用いられるものでもない。

三味線音楽の芸術化につとめたのは,16世紀半ばから17世紀半ばにかけて,三味線そのものの伝来・改良に関与した盲人音楽家たちであったが,彼らが作曲した最古典曲は,前代または当時流行していた小編の歌曲(小歌)を組み合わせて,これに三味線を結びつけて芸術歌曲化したものであった。これを,〈三味線本手〉ないし〈本手〉と称したが,のちには〈三味線組歌〉などとも称した。その中でも最古典曲は,石村検校作曲とされる《琉球組》であるが,虎沢検校を経て柳川検校に至るまでに,増補・整理された。とくに柳川が〈カタバチ(片撥)〉(撥を弦にあてて胴皮におろす普通の弾き方とスクイ撥が交互になるモロバチが本手には用いられたが,これに対して普通の弾き方のみが連続する)の奏法によって新作したものを〈破(端・葉)手(はで)〉と称してから,それ以前のものを,狭義の〈本手組〉(表組)と称した。元禄期(1688-1704)には,京都では早崎(はやさき)勾当(?-1717),大坂では野川検校を中心に異なる伝承体系を生じ,前者を早崎流ないし柳川流,後者を野川流と称した。現在では,京都の伝承は6曲ほどのみであるが,大阪では32曲のすべてが伝承され,表組,破手組,裏組,中組,奥組に分類される。

 カタバチの奏法によって,組歌形式でなく,1曲が統一的な主題で一貫される新歌曲を創始したのは,江戸の佐山検校(?-1694)であった。その新歌曲も,元禄期には組歌と同様に伝承上の規範曲とされ,これを〈長歌〉と称した。〈長歌〉は作曲者も明示され,作詞者には井原西鶴山岡元隣など名ある文人も多い。大坂では野川検校以降新作が盛んで,天明期(1781-89)には100曲以上を数えたが,のちに津山検校が長歌五十番の定めを設けてからは,新作はやみ,伝承本位となった。現在では20曲余しか伝わっていない。元禄期に作曲者も明示しえず,伝承規範曲に編入しえないものを,組歌・長歌に対して〈端歌(はうた)〉とも称した。しかし,盲人音楽家たちのその後の自由な新作は,特殊な分類に編入しうるものを除いて,すべて〈端歌〉と認めてもよく,とくに舞の地の地歌は,ほとんどこの〈端歌〉の類である。大坂では宝暦(1751-64)ころに歌木検校が改革して以来,その創作活動が活発となり,天明以後の峰崎勾当の時代に至ってその頂点に達し,文化・文政期(1804-30)には600曲前後に及んだが,現在までに伝承されているものは,それほど多くはない。その作詞には,文人,俳人,通人たちの関与したものも多く,享保期(1716-36)には柳沢淇園,天明期では二斗庵下物,流石庵羽積などが知られる。

 三味線の器楽曲は,すでに貞享(1684-88)以前から存在しており,《すががき》《りんぜつ》《ししおどり》《れんぼ》《きぬた》などの楽曲があったが,のちにはその前後に歌が添えられるようになり,寛政(1789-1801)ころには,《さらし》などのように,間奏部の器楽性の高いものとともに,〈手事物(てごともの)〉として分類されるようになり,大坂では峰崎勾当,三つ橋勾当らがその新作を盛んに行った。同時に,三味線2部の合奏形式も生まれ,〈段合せ〉〈本手〉〈本手と替手〉などのさまざまな合奏が行われるようになった。

 三味線と箏との合奏は,すでに貞享以前から行われており,箏を誤って琴ともいったことから,これらの弦曲を〈琴曲〉とさえいったほどであったが,文化ころから,箏が三味線の替手に代わるようになった。大坂では市浦検校が,既成曲に替手式の箏の編曲を行い,京都では松浦検校,菊岡検校,光崎検校,石川勾当らの〈手事物〉の曲に,浦崎検校,八重崎検校らが,同様に箏の編曲を行ってから,それらの曲はむしろ〈箏曲〉としても扱われるようになった。

 関西における浄瑠璃は,義太夫節と,江戸歌に含められた豊後系のものを除くと,他はほとんど地歌の中に吸収された。元文・寛保(1736-44)ころ流行の繁太夫節(しげたゆうぶし)などは,現在では地歌の中に遺存するのみである。また,元禄期に上方の座敷浄瑠璃として行われた半太夫節なども地歌に吸収され,地歌で独自に作られた〈繁太夫物〉〈半太夫物〉もある。座興的に作られたもので,詞章の固定性の薄いものは,宝暦ころからとくに〈作物(さくもの)〉と呼ばれ,結果として滑稽な内容のものが多い。

 現在は京都,大阪とも,盲人音楽家たちの子孫が伝承を伝えているが,箏曲家を兼ねる。箏曲化されていない楽曲,あるいは箏の編曲はあっても,三味線の比重の強い楽曲を,狭義の地歌とした場合には,その伝承者は大阪に多いことになる。北派ともいわれる菊の字を姓に含む菊筋の演奏家では,菊原琴治の娘の菊原初子(1899-2001),南派の富の字を姓に含む富筋の演奏家では,東京に進出した富崎春昇とその門下の富山清琴(1913-2008)が,いずれも人間国宝に指定された。

 別に九州にも独自の伝承が行われ,とくに三味線の技巧的発達をくふうするものが多かったが,明治以降に,長谷幸輝(ながたにゆきてる)や,その門下の川瀬里子(1873-1957)などが東京に移住してからは,東京の生田流箏曲家は,この九州系の地歌三味線家でもある者が主流を占めるに至った。とくに川瀬の改良した三味線は,現在では地歌三味線として全国で用いられ,京都の一部で,細い棹の柳川三味線を用いることもあるという状態に至っている。
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百科事典マイペディア 「地歌」の意味・わかりやすい解説

地歌【じうた】

邦楽の種目名。江戸時代以来,盲人音楽家を中心におもに関西で座敷音楽・家庭音楽として伝承されてきた三味線音楽。江戸に対し,上方を地と呼んだためこの名がある。三味線伴奏による芸術的歌曲の最古典は〈三味線組歌〉である。これが小編歌謡の組み合わせであるのに対し,一続きのまとまった歌詞による〈長歌〉が17世紀末ごろに成立。その後も,歌舞伎芝居での三味線音楽を〈芝居歌〉として伝承に編入するなどレパートリーをふやした。また,器楽的間奏部分が発達した手事物(てごともの)が流行し,それが生田流箏曲と結びついて名曲が生まれた。特に京都では三味線と箏の両方に独自性をもたせる合奏が生まれ,京物(きょうもの)(京流手事物)と称した。その結果地歌と箏曲は区別できないほどに密接になった。地歌は本来三味線による〈弾き歌い〉が正式な演奏形態であったが,前述のように箏とまた,尺八あるいは胡弓を交えた〈三曲〉の形態でも演奏されるようになった。
→関連項目荻江節上方舞組歌独吟

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「地歌」の意味・わかりやすい解説

地歌
じうた

江戸時代初期以来京都,大坂,名古屋を中心として,おもに関西で行われ,盲人の職業的演奏家,作曲家が伝承してきた三味線歌曲。地唄と書くのは,江戸における表記法。現在,主奏楽器は「三弦」と称する長唄三味線よりやや太めの棹の,鳩胸の角張った三味線に鉛駒を掛けて用い,「津山撥」と称する先端が急に薄くなった,やや大型の撥で演奏する。箏および胡弓または尺八または横笛を合奏させる演奏形式もある。曲目は,「三味線本手 (組歌) 」「長歌」「端歌」「浄瑠璃物」「作物 (さくもの) 」「手事物」などに分類され,なかでもその「手事物」は文化 (1804~18) 頃から替手式の箏の手が作曲されるにいたって,本来同じ演奏者によっていた箏曲との関係が一層不可分となった。また,上方舞の舞地 (伴奏) として用いられることも多く,その場合には地歌舞と呼ばれる。地歌という呼称の明治以前の用例としては,『守貞漫考』の例が最古であるが,公式には 1875年の「地歌業仲間」の結成のときの呼称が最初。上方唄や法師唄などの呼称は外部からのもので,上方では単に音曲,歌曲,弦曲,弦歌などともいい,場合によっては琴曲といって箏を伴奏にした三弦歌曲の意で用いることもあった。

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世界大百科事典(旧版)内の地歌の言及

【歌系図】より

地歌(じうた)の文献。天明期(1781‐89)までの地歌の曲名とその作詞者,作曲者名を記したもの。…

【当道】より

…さらに盲人の官位の昇進に莫大な官金を徴し,これをそれぞれ盲人を扶持していた大名家などが負担して収めたので,職屋敷およびその分配にあずかった取立検校らは,莫大な収入を得て,高利貸を営む者まで生じた。江戸時代には,平曲のみならず,地歌,箏曲などの音楽芸能も専業とするほか,三療(鍼,灸,按摩)に従事する者もあった。明治維新後,1871年(明治4)に当道組織は解散させられたが,とくに地歌演奏団体において名のみ遺存させて,それらの団体から私的に検校,勾当などの称号を発行することも行われている。…

【日本音楽】より

…前者の代表は義太夫節であり,後者の代表は常磐津節(ときわづぶし),清元節などである。歌のほうは,三味線組歌を最古の三味線芸術歌曲とし,これから京坂地方の三味線歌曲である地歌が発達した。また歌舞伎とともに発達した歌が,長唄である。…

※「地歌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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