萩生村(読み)はぎゆうむら

日本歴史地名大系 「萩生村」の解説

萩生村
はぎゆうむら

[現在地名]飯豊町萩生

なか村の南にあり、しら川支流萩生川の中・上流域を境域とする。嘉慶二年(一三八八)七月四日の伊達政宗知行配分状(国分文書)に「長井庄 萩生郷」とみえ、郷内の四九貫八四八文の地を国分彦四郎入道に安堵している。なお同状に当分限とあるところから、以前より国分氏が当地を領有していたと思われる。応永一二年(一四〇五)の重阿弥陀仏譲状(同文書)で、「一、きつしやうし九郎二郎さいけ 一、こいけやしき」「一、大くらの神田 一、きつしやうし八まんてん」などの在家・屋敷田地を含む「萩生郷内北方」が浮免山河とともに二郎綱信に譲られており、萩生郷は南北二方に分割されていたと考えられ、国分文書にある他の譲状などから、北方は国分氏、南方は浜田氏の勢力下にあったと思われる。文安四年(一四四七)四月二七日の沙弥道喜譲状(同文書)によれば国分氏の本拠地であった陸奥刈田かつた平沢ひらさわ(現宮城県刈田郡蔵王町)の在家・館のほか、萩生郷内の「一、きちやうし孫太郎在家 一、同孫三郎在家 一、同ゑんとうやしき在家」、越後よりの買地「たうの前へ三百かり」や、浮免、山河の成敗権などが犬松に譲られている。永正一〇年(一五一三)六月二六日、湯村助十郎は国分彦三郎より買った「波幾宇北方内」の地を伊達稙宗から安堵された(伊達正統世次考)


萩生村
はぎゆうむら

[現在地名]富津市萩生

たけおか村の南西方にあり、西部は浦賀水道に面する。大浜おおばま谷坪やつぼ星谷ほしやつ黄金井戸こがねいど萩生新町はぎゆうしんまちなどがあり、房総往還が通る。応永二四年(一四一七)一〇月一七日の鎌倉公方足利持氏料所所進状(上杉文書)に「上総あまうの郡の内、はきうつくらうミの郷」とみえ、皆吉伯耆守の跡に「あのゝ局」に下地が引渡されるよう大坪孫三郎・佐々木隠岐守が派遣されている。同日付の関東管領上杉憲基施行状(同文書)には萩生と書かれる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一八七石。寛文四年(一六六四)の松平重利領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、下野皆川藩領。元禄郷帳では高一七三石余で、幕末まで変わらない。


萩生村
はぎうむら

[現在地名]吾妻町萩生

榛名はるな山西麓にあり、吾妻川とからす川の分水嶺に当たる萩生峠の尾根が境界をなす。東と北は大戸おおど村。南の権田ごんだ(現群馬郡倉淵村)から大戸(信州道)が通る。字境野さかいの中世には榛名山領で、「頼印大僧正行状絵詞」に「上州榛名山ノ社領境野ト云フ所ニ、御舎利昼夜ニ降ル事退転ナシ、(中略)爰ニ一ノ大石アリ、イカサマ此中ニ宝珠有ルカ」とみえる。また応安六年(一三七三)一一月頃のこととして「上州群馬郡上萩生長福寺別当覚源夢ミラク」とある。


萩生村
はぎゆうむら

[現在地名]新居浜市萩生

北端に金子山かねこやま丘陵が東西に横たわり、南はつじみね(九五七・九メートル)を主峰とする山地が村域の大半を占め、その北麓に小味地こみじ川の小河川のつくった小扇状地が東西に並ぶ。南北に長く、東西に短い村。

慶長六年(一六〇一)一一月、藤堂高虎が家臣渡辺勘兵衛に与えた「知行方之目録」(南部文書)に「千百四拾七石六斗四升六合 新居郡内萩生村」とある。村名の由来は萩生い茂るという意で、古刹萩生寺(南之坊)縁起に「萩の郷」とある(小松邑誌)。寛永一三年(一六三六)一柳小松藩領となった。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の新居郡の項に「萩生村 柴山有、日損所」とあり、一千石を超える大村。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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