中国・台湾の政治家。浙江(せっこう)省奉化県出身。国民党・国民政府の指導者蒋介石(しょうかいせき)の長男として蒋と最初の夫人との間に生まれる。1924~1937年モスクワに留学、モスクワ中山大学などに学び、ロシア人と結婚。1938年江西(こうせい)省旧中国共産党ソビエト区で国府の行政公署専員となり、反共救国を叫ぶ。第二次世界大戦後1945年国府外務省東北特派員。1948年上海(シャンハイ)経済督察官。1949年蒋介石の台北(たいほく)遷都に従い、国民党台湾省党部主任となる。1950年国防省総政治部主任となり、特務組織を握る。1952年国民党中央委員。1954年国防最高会議副秘書長。1958年行政院・内閣政務員。1960年陸軍上将。1962年国民党常務委員。1964年国防次官。1965年国防相。1967年(昭和42)来日。1969年副首相。1970年来日。1972年首相。1975年亡父の後を継ぎ国民党主席。蒋介石死(1975)後の台湾の最高指導者となる。1978年第6代総統。1981年党主席再任。第三次国共合作の呼びかけを拒否し、三民主義による中国統一を主張した。晩年は、台湾の政治的民主化の先鞭(せんべん)をつけ、1986年野党・民主進歩党の旗上げを黙認。1987年戒厳令解除し、同年11月制限付きながら台湾住民の大陸への里帰りを許可した。1988年1月蒋の死後、その遺志を継いだ李登輝(りとうき)が、台湾のさらなる民主化を推進した。
[高市恵之助・渋谷 司]
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1910~88
中国の政治家。浙江(せっこう)省奉化県生まれ。中国国民党と国民政府の指導者蒋介石(しょうかいせき)の長男。1980年代に台湾で政治改革を断行したことで知られる。郷里の私塾や上海の小学校で学んだのち,1925年ソ連に渡りモスクワの中国人共産党幹部養成所「孫逸仙大学」やレニングラードの中央軍事政治研究学院で学ぶ。37年に帰国して政治活動に従事するが,注目されるようになったのは,北京に成立した共産党政権に追われて49年国民政府(中華民国)が台湾に移ってからである。台湾では国民党軍の再建,情報・治安部門の強化,退役軍人救済事業などに取り組む。その後64年国防部副部長,65年国防部部長,69年行政院副院長をへて72年行政院院長となる。78年中華民国第6代総統に就任。84年第7代総統に就任後,86年政治改革に着手,禁止されていた反国民党勢力による野党の民主進歩党結成(86年9月)を容認したほか,戒厳令解除や台湾住民の大陸訪問解禁などを実現した。88年台北市内で病死。
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