翻訳|life science
1970年代以降に進められた、生命現象の解明、人間の理解とそれを基本にした科学技術や社会システムの開発を目ざした総合的な学問をいう。
[中村桂子]
1970年代初め、アメリカでライフサイエンス、日本で生命科学という新分野が誕生した。アメリカでは、1960年代に宇宙開発に重点を置いていた科学・科学技術に対し、1970年代に入って、より生活に近い分野に目を向けることが求められた。そこで注目されたのが、医療。大統領ニクソンは、癌(がん)との闘いを目標とした。病因を明らかにし、予防・治療につなげるには、生物学と医学の連携が不可欠であるということで、国の研究予算の項目として生物学と医学をまとめてライフサイエンスとしたのである。
一方、同じころ日本では、江上不二夫(ふじお)(当時東京大学教授)が、生命科学を構想した。科学技術の進展により生活が豊かになる反面、環境問題が顕在化し始め、有限な地球のなかでの生き方を探る必要が認識された時代である。生物学の成果として地球上の生物はすべてDNA(デオキシリボ核酸)を基本とする仲間であり、そのなかに人間も含まれることが明らかになったなかで、大気や水の汚染、森林破壊が進むとすれば、人類の明るい未来はみえない。生きものの一つとしての人間という視点から社会を組み立て、科学技術も生物の理解を基本にして進める必要がある。このような考え方で生命現象の解明、人間の理解とそれを基本にした科学技術や社会システムの開発を目ざした総合的な学問が生命科学である。
[中村桂子]
(1)生命現象の理解 1970年代後半に開発された組換えDNA技術と塩基配列解析技術の活用により、細胞、遺伝、発生、免疫、癌、脳神経などの研究は急速に進展した。そのなかでヒトがもつDNAのすべての塩基配列解析を目ざすヒトゲノムプロジェクトが進められ、2003年(平成15)には解読が完了した。ここから改めて生命現象の解明をどう進めていくかが現在のテーマである。
(2)バイオテクノロジーの誕生 組換えDNA技術を用いて、インスリンなど、本来生物がつくりだす高分子物質で、工業生産はむずかしかった薬品の製造や組換えDNA作物(たとえば、ジャガイモ、ダイズ、トウモロコシ、トマト)の生産などが可能となり、バイオテクノロジーという新分野が誕生し、大いに期待された。しかし、薬品は限られたものしか生まれず、組換えDNA作物も安全性について市民の理解が得にくいなど、産業的には大きな展開はみられなかった。21世紀に入り、ヒトゲノム解読(その他各種細菌、酵母、イネなども解読)により、創薬や品種改良への期待がふたたび高まっているが、今後の展開の明確な予測は、現時点ではむずかしい。
(3)ライフサイエンスは生物医学へ このような科学と技術の進展でアメリカでは生物学と医学の合体が当然のこととなり、生物医学Biomedicineということばが日常語となって、ライフサイエンスはほとんど使われなくなっている。
[中村桂子]
ヒトゲノムの解読完了、生物医学への期待の増大などで、21世紀に入って改めて、生命科学が、経済の活性化のための最先端技術を開発する分野として注目され始めた。当初提唱されたときには、生きものの一つとしての人間の理解を深め、それを基本に新しい社会システムや科学技術の開発をするという理念があったのに、いまや金融経済のなかで特許を取得し、ベンチャービジネスを立ち上げることが重要な作業になっている。もちろん、DNA研究を基盤にした薬品、医療、種苗、食品などの産業開発は重要だが、それが本当に生きものとしての人間の暮らしやすい社会づくりにつながらなければ、生命科学の意味がない。21世紀の社会のあり方を考えるうえで重要な選択のときである。
[中村桂子]
ここで、生きものの特徴に目を向けてみよう。従来の生命科学は、生物を機械論的世界観のなかに置き、物理科学の方法で解明しようとしてきた。しかし、生命体は、多様性、複雑性、曖昧(あいまい)性、階層性、多義性をもち、しかも歴史の産物(40億年近い歴史)で開放系であるために環境とつながっている。このような存在は、法則・数式に還元できるものではなく、ことばで語るほかない。ゲノムには、そのような物語りを語る構造があると思われる。そこで、ゲノムを単位として細胞、個体、種、生態系をそれぞれ理解するとともに、お互いの関係を知る新しい知を組み立てていくことが不可欠である。これは「生命誌Biohistory」とよぶのがふさわしく、生命論的世界観をつくりだすものとなるだろう。
[中村桂子]
生命科学は、単なる科学の一分野として生まれたのではなく、社会の価値観を機械論から生命論的世界観に変え、生きものとしての人間が、他の生きものとともに暮らす生活をつくりあげようという意図をもっていた。しかし、生命科学は、それに成功したとはいえない。理由は、物理科学のパラダイムのなかで生きものを扱ったこと、社会に役だつことを経済に限定して科学技術や産業に走りすぎたこと、学問と日常とを分離して生きものに対する感性を大切にしなかったこと、価値観についての議論をしなかったこと、などがあげられる。
日常生活に関しては、食(農林水産業)、健康(医療、福祉)、環境、教育(心)の四つを重視した技術開発や社会システムづくりをすることが求められている。ところが、金融経済の下での競争社会に勝ち残ることを目標にしている現在の社会は、このような生活の基本を大切にしていない。たとえば、哺乳(ほにゅう)類での体細胞クローンが可能になったところで、ヒトクローンの誕生を求める人がいる。これは、対外受精が日常化し、他人の生殖細胞や子宮を用いてでも自分の願望を実現することが当然という考え方のなかで生まれたものである。生きることについて深く考えたとき、願望の抑制も必要という答えが出るはずだ。改めて、有限な地球のなかで、すべての人が真の豊かな生活を送れるようにするには、20世紀を象徴する機械と火に対して生命と水へと移行するのが21世紀のテーマになるだろう。
[中村桂子]
『中村桂子著『ミクロコスモスに生命誌をよむ』(1990・三田出版会)』▽『中村桂子著『生命科学から生命誌へ』(1991・小学館)』▽『生命科学資料集編集委員会編『生命科学資料集』(1997・東京大学出版会)』▽『中村桂子著『生命誌の窓から』(1998・小学館)』▽『中村桂子著『生命誌の世界』(2000・NHKライブラリー)』▽『岡田節人著『ヒトと生きものたちの科学のいま』(2001・岩波書店)』▽『大森正之ほか編著、矢内徹一ほか著『新しい植物生命科学』(2001・講談社)』▽『関西学院大学キリスト教と文化研究センター編著『生命科学と倫理――21世紀のいのちを考える』(2001・関西学院大学出版会)』▽『宮木幸一著『ポストゲノムのゆくえ――新しい生命科学とバイオビジネス』(2001・角川書店)』▽『小比賀正敬・中島陽子著『現代生命科学入門』(2001・慶応義塾大学出版会)』▽『総合研究開発機構・川井健編『生命科学の発展と法――生命倫理法試案』(2001・有斐閣)』▽『松原謙一著『遺伝子とゲノム』(2002・岩波書店)』▽『本庶佑・中村桂子著『生命の未来を語る』(2002・岩波書店)』▽『総合研究開発機構編、藤川忠宏著『生殖革命と法――生命科学の発展と倫理』(2002・日本経済評論社)』▽『塩川光一郎著『生命科学を学ぶ人のための大学基礎生物学』(2002・共立出版)』▽『広野喜幸・市野川容孝・林真理編『生命科学の近現代史』(2002・勁草書房)』▽『中村運著『生命科学の基礎』(2003・化学同人)』▽『中村桂子著『生命科学』『「いのち」とはなにか――生命科学への招待』(講談社学術文庫)』▽『中村桂子著『生命科学者ノート』(岩波現代文庫)』▽『池内俊彦著『タンパク質の生命科学――ポスト・ゲノム時代の主役』(中公新書)』
ライフサイエンスともいう。生物関係の学問を大まかにまとめて生命科学(ライフサイエンス)と呼ぶことは,1930年代のアメリカなどにも,すでに例があった。しかしこの語に新しい意味をもたせ,積極的に用いる傾向は,60年代からとくに目だってきた。その動機と含意は,知識と技術における以下のようないくつかの発展と結びついている。
(1)DNAの二重らせんモデル(1953)と,それに続く分子生物学の急展開によって,すべての生物学分野を,遺伝子を中心にして統一してとらえる志向が強まった。たとえば突然変異は,DNA鎖の局所に生じたランダムな分子的置換という明確なイメージを得た。個体発生や免疫現象も,遺伝情報の発現パターンのダイナミックな調節としてとらえられる。こうした統一化とともに,生物の種や群の特殊性も後景に退いて,全生物に共通する生命現象の研究という性格が強く打ち出される。生命科学の語感は,この普遍性をとらえるのに適切であった。(2)人間と動物の連続性は,ダーウィンの進化論以来,確立した見方となったが,それにもかかわらず,人間は単に動物の一種としては,とらえ切れない存在のようにみえる。分子生物学と並行して発展した動物行動学においては,各動物の種としての論理ということが,発想の基礎にある。人間の〈動物を超えた〉特性が,動物としてのどのような特殊性に根ざすものか,それは現代のヒトおよびヒト社会のうちにも,どのように生きているかという,逆説的だが根源的な問いかけも,現代の生命科学において,欠かせない要素である。
(3)上記の(1)の意味での生命科学と,材料工学,情報工学などの発達で,人間を物質系として扱う生物医学技術の能力が大幅に増して(人工臓器,体外受精,生命維持装置,遺伝子操作),個人の生死や遺伝のように絶対視されていた価値基準と干渉しあうようになった。また,(4)工業と人口の加速度的上昇で,資源,汚染,公害,人口などの環境問題が,地域においても地球規模でも問われるようになってきた。人間を座標軸としての生態系の見方といえる。この(3),(4)と関連してライフサイエンスの語が用いられるときには,〈ライフ〉には人間の生命,生活の含意が強い。
(1)の意味での生命科学は生命を対象として見る客観的な理解である。その限りで,19世紀初頭に博物学から近代科学への脱皮にさいして,〈生物学biology〉の語が提唱されたことの現代版とみることもできる。しかしこれが,(2),(3),(4)でのように,つねにわれわれ人間自身の生き方,価値観とつながりあうところに,生命科学の特有の性格がある。ただし,知的活動が,活動そのもののあり方を問いなおしつつ進むのは,科学,技術を含めて現代のすべての面に見られることであって,人間を直接に包含する生命科学では,この特色がひときわ目だつのであるという理解も成り立つ。
執筆者:長野 敬
生命倫理bioethicsという言葉は,生命科学という言葉が意識的に用いられはじめた1960年代に,それと表裏の関係をもって使われはじめたもので,生命科学の時代に人間がよるべき新しい倫理というほどの意味である。生命科学が多義的であるのに応じて,生命倫理の内容も人によってかなり異なるが,ここでは最も広い意味でとらえ,そこで問題になる三つの点について主として法的な側面から述べる。
(1)工業技術の開発が引き起こす公害その他の自然・環境破壊にどう対処するかという課題。先進工業国を中心に広がる環境破壊は,〈自然を支配する人間〉であるより前に,〈自然の一部としての人間〉であることを再自覚すべきである,という生態学的な反省を生みだした。そしてこの自覚が,新しい権利として〈環境権〉や〈健康権〉を構成するという法的課題を提起し,しかもそれら各種の社会的権利を,自然権としての〈生存権〉ないし〈生命権〉を基礎としてとらえることを要請するに至った。(2)病気とその修復過程において,個体がいかにして肉体的統合性を保持しつつ回復するか,という課題。治療行為における患者の〈説明を受けたうえでの承諾informed consent〉の確保や,医療過誤訴訟における患者の権利の主張は,その最も著しい現れの一つである。このことは,従来は無視ないし軽視されがちであった患者の生命・肉体のインテグリティについての患者の主体性の自覚を基盤としている。そのような状況のなかで臓器移植・人工臓器に代表される置換医療が,医療を単に個体的現象にとどめずに,個体と個体とをつなぐ超個体的技術として展開している。なかでも臓器移植によって提起された新しい問題の一つは,人体の一部が,それが本来属している有機体を離脱して,〈価値をもった一種の財物〉として社会的に流通する可能性が生じたことである。そしてそれが腎臓移植のように臨床的に確立されればされるほど,その需要の増大に供給がこたえられないという限界が社会的な問題ともなっている。そこには臓器提供者の承諾および〈死の判定〉という深刻な問題がからんでくるのである。(3)広い意味での遺伝子工学の開発が生命の伝承過程に人為的に介入してくることの問題。妊娠中絶の合法化は,いまや世界的に大きな問題となっている。他方,人工授精,とくにAIDは,すでに40年以上の実績を誇っているし,体外受精ないし胎芽移植embryo transferもいまや現実のものとなった。これらはいずれも,自然の性行為と生殖との直接的な因果関係を切断するものではあるが,しかもなお広義では〈性と遺伝〉の原理に基づく生命再生産であることに変わりはなかった。ところが今日ではさらに,クローニングcloningの技術が開発されつつある。ここに至れば,性や遺伝とは無関係の生命再生産が志向されることになる。これら性と生殖との分離は,従来の家族法による親子の成立・認定の法技術では処理しきれない問題を提起し,婚姻の観念・家族の概念に変化をもたらすどころか,人間の生命の根源的理念を脅かす恐れも皆無ではない。
多年にわたり進行してきた環境破壊,医療の進歩による〈健康〉や〈生死〉の概念の変化,そして人間再生産のしくみの人為的加工という重要な問題提起は,基本的人権の基礎である〈生命〉や〈人間らしい生活とは何か〉についての再検討をわれわれに迫るものである。かくして生命倫理の問題は法学(とくに家族法と医事法)のみならず他の社会科学諸部門にも大きなかかわりをもつものということができよう。
執筆者:唄 孝一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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