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藤原信頼 ふじわらののぶより

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原信頼
ふじわらののぶより

[生]長承2(1133)
[没]平治1(1159).12.27.
平安時代後期の廷臣。関白道隆の8世の孫。従三位大蔵卿忠隆の3男。母は民部卿顕頼の娘。久安2 (1146) 年従五位上,仁平1 (51) 年正五位下,久寿2 (55) 年従四位下。無能だったが,後白河天皇の寵を得て,保元2 (57) 年右近衛権中将,従四位上,次いで正四位下,左近衛権中将,蔵人頭と累進し,翌3年正四位上,参議,従三位に昇り,さらに左兵衛督,権中納言,正三位,検非違使別当,右衛門督となった。翌平治1 (59) 年藤原通憲を除こうとして,源義朝と結託して謀反を起したが,追討宣旨を下され,斬首された。 (→保元・平治の乱 )  

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百科事典マイペディアの解説

藤原信頼【ふじわらののぶより】

平安後期の高官。権中納言(ごんのちゅうなごん)。父は忠隆(ただたか)。後白河法皇に重用され,院別当となった。藤原通憲(みちのり)(信西)と権勢を争い,源義朝と結んで平治(へいじ)の乱を起こし通憲を殺したが,平清盛に敗れ,斬殺された。
→関連項目本朝世紀

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原信頼 ふじわらの-のぶより

1133-1160* 平安時代後期の公卿(くぎょう)。
長承2年生まれ。藤原忠隆の3男。母は葉室顕頼(あきより)の娘。後白河天皇の寵愛(ちょうあい)をうけ,保元(ほうげん)3年(1158)参議,同年権(ごんの)中納言,正三位にすすむ。後白河院の別当となるが,信西(藤原通憲(みちのり))と対立し,源義朝(よしとも)とくんで平治(へいじ)のをおこす。平清盛の反攻に敗れ,平治元年12月27日処刑された。27歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原信頼

没年:平治1.12.27(1160.2.6)
生年:長承2(1133)
平安後期の公卿。鳥羽院近臣従三位藤原忠隆と葉室顕頼の娘の子。天養1(1144)年叙爵。土佐守,武蔵守を歴任。保元2(1157)年近衛中将,蔵人頭を経て,正三位権中納言右衛門督に至る。同3年の二条天皇践祚後は『愚管抄』の言葉をかりれば「アサマシキ程」の寵愛を後白河院より受け,院の別当として台頭し,時の権力者である藤原通憲(信西)と激しく対立した。信頼は大将の地位を望むが,信西によって阻止されたためこれを深く恨み,保元の乱後平清盛との処遇の差に不満を抱いていた源義朝と組み,さらに反信西勢力たる二条天皇側近らを語らって,平治1(1159)年12月クーデタを起こした(平治の乱)。信西を殺害し,自ら除目を行って大臣大将となり朝廷の実権を握ったが,数日後には平清盛らの反攻にあって敗れ,六条河原で斬殺された。『平治物語』冒頭には「文にもあらず武にもあらず。能もなく芸もなく,只朝恩にのみほこり」という有名な一節があり,またその激しい性格や気性から「悪右衛門督」と称せられているが,一面的一方的な酷評を鵜のみにするのは避けるべきであろう。とはいえ,同時代の評価は低い。しかし,例えば武蔵守時代に広隆寺本堂を新造するといった富裕な受領として果たした役割をみることも必要である。<参考文献>飯田悠紀子『保元・平治の乱』

(木村真美子)

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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらののぶより【藤原信頼】

1133‐59(長承2‐平治1)
平安末期の公卿。大蔵卿忠隆の男。母は鳥羽院第一の近臣藤原顕頼の女。祖父基隆,父忠隆はともに典型的な院司受領として白河,鳥羽両上皇に近仕したが,信頼も父および外祖父顕頼の庇護のもとに,土佐,武蔵の守に任じ,鳥羽院の近臣の列に加えられた。ついで保元の乱後,急速に後白河天皇の寵を得,右近衛権中将に任じ,蔵人頭を兼ね,1158年(保元3)には26歳の若さで参議に昇った。ついで同年早くも権中納言に進み,右衛門督を兼ね,さらに近衛大将を望んだが,信西の諫奏により阻止されたという。

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大辞林 第三版の解説

ふじわらののぶより【藤原信頼】

1133~1159) 平安後期の廷臣。忠隆の子。権中納言。後白河院別当。源義朝・藤原成親と結び、対立する藤原通憲みちのり(信西)を殺害(平治の乱)したが、平清盛に敗れ、斬殺された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原信頼
ふじわらののぶより
(1133―1159)

平安末期の公卿(くぎょう)。従三位(じゅさんみ)藤原忠隆(ただたか)の四男。母は鳥羽(とば)院近臣民部卿(みんぶきょう)藤原顕頼(あきより)の女(むすめ)。保元(ほうげん)の乱(1156)ののち後白河(ごしらかわ)天皇の信任を得て急速に台頭、58年には正三位(しょうさんみ)権中納言(ごんちゅうなごん)兼検非違使(けびいし)別当・右衛門督(うえもんのかみ)となる。さらに大臣・近衛(このえ)大将の任官を望んだが、政敵少納言入道信西(しんぜい)(藤原通憲(みちのり))に阻止されたという(『平治(へいじ)物語』)。信西と組む平清盛(きよもり)に圧迫された源義朝(よしとも)がこの信頼と結び、翌59年(平治1)12月平治の乱を起こして敗れる。同月27日六条河原で処刑された。27歳。[飯田悠紀子]

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世界大百科事典内の藤原信頼の言及

【藤原伊通】より

…陣座での拝官は伊通をもって初めとする。平治の乱のさい,藤原信頼が戦功者を勝手に叙任したのを見て,〈人を多く殺した計で官位を与えるのであれば,三条殿の井は多くの人を殺している。何故その井に官位を与えないのか〉と批判したと伝える。…

【平治の乱】より

保元の乱に勝った後白河天皇は1158年(保元3)に退位して院政をはじめるが,その間に院近臣や武士のあいだに権力争いがはげしくなっていた。院権臣の信西(藤原通憲)と藤原信頼とは互いに権勢を競って対抗し,とくに信西が信頼の近衛大将の就任を阻止したことによってその抗争は深刻なものとなった。一方,武士の棟梁のなかでは,平清盛と源義朝が相互に競って中央政界への進出をはかったが,保元の乱で武勲第一の義朝が左馬頭にとどまり,清盛が播磨守・大宰大弐になったことは,義朝に大きな不満を抱かせ,その反目が鋭くなった。…

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