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1156年(保元1)に起こった京都の争乱。〈ほげんのらん〉ともいう。皇室・摂関家内の勢力争いに源平2氏の武力が介入して勃発した。白河院政開始(1086)後,朝廷には〈治天の君(ちてんのきみ)〉=院と天皇と二つの権力が競合併存することとなり,それにともなって勢力争いは複雑かつ熾烈化していった。白河院没(1129)後はその子鳥羽上皇が院政をとったが,鳥羽院は1141年(永治1)崇徳(すとく)天皇(鳥羽院の子。実際は白河院の子で,そのため鳥羽院は〈おじご〉と呼んでいたという)を謀って退位させ,鳥羽院と美福門院(びふくもんいん)との間に生まれた近衛天皇(3歳)を即位させた。新天皇は病弱で55年(久寿2)に没するが,このとき崇徳上皇はみずからの重祚(ちようそ)か,子重仁親王の即位を期待した。しかし鳥羽,美福門院は近衛の兄後白河天皇を即位させ,皇太子には後白河の子守仁親王(後の二条天皇)を立てた。このため崇徳上皇は皇位継承・執政の望みを完全に絶たれた。一方摂関家では,藤原忠実(ただざね)とその子忠通(ただみち)・頼長(よりなが)兄弟3者の間に対立が生まれていた。初め忠実・頼長父子は鳥羽院に重用され,忠実は関白忠通から内覧(ないらん)を奪って関白の地位を有名無実化させ,氏長者(うじのちようじや)の地位とともにこれを頼長に付与してしまった。そこで忠通は美福門院への接近を図って策動し,その結果今度は忠実,頼長が鳥羽院の信頼を失って失脚,後白河天皇即位を機に頼長の関白就任・内覧宣下の望みは絶たれた。
56年7月2日鳥羽院が死去すると,天皇方は崇徳上皇,藤原頼長両人をしきりに挑発,上皇方はこれに乗って白河殿に源為義・為朝父子や平忠正らの武士を招集した。これに対し天皇方は為義の嫡子源義朝,忠正の甥平清盛など主要な武士を掌握していた。同月11日未明,天皇方は白河殿を急襲して火をかけ,上皇,頼長は逐電した。ほどなく上皇は捕らえられ,頼長は流矢に当たって死去した。乱は半日で天皇方の勝利に決した。乱後,上皇が讃岐に配流されたほか,上皇方の与同人はそれぞれ流罪に処せられた。武士に対する措置は厳しく,薬子(くすこ)の乱(810)以来とだえていた死刑が復活され,平忠正とその子息たちは清盛によって六波羅で斬られ,ついで源為義とその子息たちが義朝によって斬首された。この乱によって武士の重要性が公家に認識されたうえ,武士自身も自分の力を自覚することとなる。藤原忠通の子の僧慈円が《愚管抄》に〈鳥羽院ウセサセ給ヒテ後,日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後,ムサ(武者)ノ世ニナリニケル也〉と記したように,保元の乱を契機に武家政権成立への胎動が始まったということができる。
→平治の乱
執筆者:飯田 悠紀子
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1156年(保元元)皇室および摂関家の内部対立がもとで京都におこった内乱。皇室では皇位継承をめぐり崇徳(すとく)上皇と後白河天皇の兄弟が対立,摂関家でも藤原忠通・頼長兄弟が摂関職をめぐって争い,上皇とは頼長とその父忠実が結び,天皇と忠通が接近した。鳥羽上皇の死を契機に両陣営間の緊張が高まり,双方が武士をまきこんで武力衝突をおこした。崇徳・頼長側には平忠正・源為義,後白河・忠通側には平清盛・源義朝などがついた。戦闘は天皇側の夜襲による先制攻撃が功を奏して1日で終わり,上皇側の敗北となった。頼長は戦傷がもとで没し,上皇は讃岐に流された。忠正・為義らは,天皇の近臣藤原通憲の主張により,それぞれの甥清盛と子義朝の手で斬首。薬子(くすこ)の変以来300年以上絶えていた死罪が復活し,京都が戦場となったこともあわせ世に衝撃を与えた。貴族間の対立が武士の力によって解決し,武士の時代の到来を示すこととなった。
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…この乱によって武士の重要性が公家に認識されたうえ,武士自身も自分の力を自覚することとなる。藤原忠通の子の僧慈円が《愚管抄》に〈鳥羽院ウセサセ給ヒテ後,日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後,ムサ(武者)ノ世ニナリニケル也〉と記したように,保元の乱を契機に武家政権成立への胎動が始まったということができる。平治の乱【飯田 悠紀子】。…
…一方,貴族社会では,専制的な上皇の執政のもとで,旧来の慣行は無視され,秩序は乱れ,ついには恣意的な皇位継承が皇室や摂関家の内紛をよび起こし,武士を引きこんで抗争するまでに至った。 1156年(保元1)の保元の乱がそれで,騒乱は半日で終わったが,平安京創設以来初めての市中の合戦は,世人に大きな衝撃を与えた。この乱によって,武士の政治的立場は飛躍的に高まり,ことに源氏が為義・義朝父子の相克により大きな損傷を受けたのに対し,平氏は清盛を筆頭にして一族が朝廷に進出し,さらに平治の乱(1159)によって,源氏の勢力を都から一掃し,中央・地方の軍事権を掌握した。…
…保元の乱(1156)を素材とする和漢混交文の軍記物語。鎌倉時代前期までに成立か。…
…その勇力猛威をもって九州中を掠領し,訴えられたが朝廷の召喚にも応じなかったため,1154年(久寿1)父為義が解官(げかん)された。やむなく上洛したところ56年(保元1)7月保元の乱が起こり,為朝は父為義に従って崇徳上皇方として参戦した。軍評定(いくさひようじよう)で夜襲を献策したが藤原頼長に退けられ,逆に義朝の献策をいれた後白河天皇方に夜討をかけられた。…
…54年(久寿1)子源為朝の九州における乱行により解官(げかん),家督を長子義朝に譲る。56年(保元1)7月保元の乱で崇徳上皇・藤原頼長方にくみし敗れる。後白河天皇方についた長子義朝の助命嘆願も及ばず,7月30日行方不明の為朝を除く子息5人とともに,義朝により斬首された。…
※「保元の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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