精選版 日本国語大辞典 「保元の乱」の意味・読み・例文・類語
ほうげん【保元】 の 乱(らん)
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1156年(保元元)皇室および摂関家の内部対立がもとで京都におこった内乱。皇室では皇位継承をめぐり崇徳(すとく)上皇と後白河天皇の兄弟が対立,摂関家でも藤原忠通・頼長兄弟が摂関職をめぐって争い,上皇とは頼長とその父忠実が結び,天皇と忠通が接近した。鳥羽上皇の死を契機に両陣営間の緊張が高まり,双方が武士をまきこんで武力衝突をおこした。崇徳・頼長側には平忠正・源為義,後白河・忠通側には平清盛・源義朝などがついた。戦闘は天皇側の夜襲による先制攻撃が功を奏して1日で終わり,上皇側の敗北となった。頼長は戦傷がもとで没し,上皇は讃岐に流された。忠正・為義らは,天皇の近臣藤原通憲の主張により,それぞれの甥清盛と子義朝の手で斬首。薬子(くすこ)の変以来300年以上絶えていた死罪が復活し,京都が戦場となったこともあわせ世に衝撃を与えた。貴族間の対立が武士の力によって解決し,武士の時代の到来を示すこととなった。
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…一方,貴族社会では,専制的な上皇の執政のもとで,旧来の慣行は無視され,秩序は乱れ,ついには恣意的な皇位継承が皇室や摂関家の内紛をよび起こし,武士を引きこんで抗争するまでに至った。 1156年(保元1)の保元の乱がそれで,騒乱は半日で終わったが,平安京創設以来初めての市中の合戦は,世人に大きな衝撃を与えた。この乱によって,武士の政治的立場は飛躍的に高まり,ことに源氏が為義・義朝父子の相克により大きな損傷を受けたのに対し,平氏は清盛を筆頭にして一族が朝廷に進出し,さらに平治の乱(1159)によって,源氏の勢力を都から一掃し,中央・地方の軍事権を掌握した。…
…保元の乱(1156)を素材とする和漢混交文の軍記物語。鎌倉時代前期までに成立か。…
…その勇力猛威をもって九州中を掠領し,訴えられたが朝廷の召喚にも応じなかったため,1154年(久寿1)父為義が解官(げかん)された。やむなく上洛したところ56年(保元1)7月保元の乱が起こり,為朝は父為義に従って崇徳上皇方として参戦した。軍評定(いくさひようじよう)で夜襲を献策したが藤原頼長に退けられ,逆に義朝の献策をいれた後白河天皇方に夜討をかけられた。…
…54年(久寿1)子源為朝の九州における乱行により解官(げかん),家督を長子義朝に譲る。56年(保元1)7月保元の乱で崇徳上皇・藤原頼長方にくみし敗れる。後白河天皇方についた長子義朝の助命嘆願も及ばず,7月30日行方不明の為朝を除く子息5人とともに,義朝により斬首された。…
…この乱によって武士の重要性が公家に認識されたうえ,武士自身も自分の力を自覚することとなる。藤原忠通の子の僧慈円が《愚管抄》に〈鳥羽院ウセサセ給ヒテ後,日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後,ムサ(武者)ノ世ニナリニケル也〉と記したように,保元の乱を契機に武家政権成立への胎動が始まったということができる。平治の乱【飯田 悠紀子】。…
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