平治の乱(読み)へいじのらん

百科事典マイペディアの解説

平治の乱【へいじのらん】

平安末期,1159年(平治1)に起こった内保元(ほうげん)の乱の後,後白河法皇をめぐって藤原通憲(みちのり)(信西)と藤原信頼とが反目し,通憲は平清盛と,信頼は源義朝(よしとも)と結んで対立。信頼らは清盛の熊野参詣(さんけい)中挙兵,法皇を幽閉し,通憲を殺した。しかし帰京した清盛に敗れ,信頼は斬罪,義朝は尾張(おわり)で殺された。義朝の子頼朝も伊豆に流され源氏は一時衰退,1167年清盛は太政大臣となり平氏は全盛をきわめた。
→関連項目院政源平争乱後白河天皇佐々木定綱山槐記澄憲藤原成親平治物語本朝世紀源義経源義平源頼朝源頼政

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典 第2版の解説

へいじのらん【平治の乱】

1159年(平治1)に起こった内乱。保元の乱に勝った後白河天皇は1158年(保元3)に退位して院政をはじめるが,その間に院近臣武士のあいだに権力争いがはげしくなっていた。院権臣の信西(藤原通憲)と藤原信頼とは互いに権勢を競って対抗し,とくに信西が信頼の近衛大将の就任を阻止したことによってその抗争は深刻なものとなった。一方,武士の棟梁のなかでは,平清盛と源義朝が相互に競って中央政界への進出をはかったが,保元の乱で武勲第一の義朝が左馬頭にとどまり,清盛が播磨守・大宰大弐になったことは,義朝に大きな不満を抱かせ,その反目が鋭くなった。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

大辞林 第三版の解説

へいじのらん【平治の乱】

保元ほうげんの乱後、1159年(平治1)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし、平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。以後、平氏の政権が成立した。

出典 三省堂大辞林 第三版について 情報

世界大百科事典内の平治の乱の言及

【平安時代】より

… 1156年(保元1)の保元の乱がそれで,騒乱は半日で終わったが,平安京創設以来初めての市中の合戦は,世人に大きな衝撃を与えた。この乱によって,武士の政治的立場は飛躍的に高まり,ことに源氏が為義・義朝父子の相克により大きな損傷を受けたのに対し,平氏は清盛を筆頭にして一族が朝廷に進出し,さらに平治の乱(1159)によって,源氏の勢力を都から一掃し,中央・地方の軍事権を掌握した。ただ清盛は独自の武家政権の樹立を志向せず,みずから太政大臣にのぼったのをはじめ,一門を朝廷の要職に配し,さらに女子の徳子を高倉天皇の皇后とし,外孫安徳天皇を位につけるなど,かつての藤原氏と同様の手法をもって政権の掌握を図った。…

【源義朝】より

…上京して下野守となり,1156年(保元1)保元の乱で平清盛と同様後白河天皇方として戦い,乱後父為義,兄弟以下崇徳上皇方の源氏一族を斬った。恩賞により左馬頭(さまのかみ)となったが,信西(しんぜい)と組んだ清盛と不和になり,59年(平治1)12月清盛が熊野参詣に赴いた留守をついて藤原信頼とともに挙兵し,平治の乱を引き起こした。しかし急ぎ帰京した清盛の軍勢に敗れ,東国に逃れる途中,尾張国知多郡野間(現,愛知県知多郡美浜町野間)で家人長田忠致(おさだただむね)のために鎌田正清ともども殺された。…

【湯浅党】より

…本領の湯浅荘に拠る惣領家を中心に,得田,糸我(いとが),石垣,保田,阿氐河(あてがわ)氏などの庶子家,および婚姻関係で結ばれた〈他門〉の諸氏からなっている。湯浅氏の確実な祖は権守(ごんのかみ)を称した藤原宗重で,彼は平治の乱(1159)に際し,熊野詣での途上にあった平清盛をたすけて帰洛(きらく)をうながし,平氏の勝利に重要な役割をはたした。それ以降,平氏の有力な家人(けにん)となり,しばしば上洛して貴族や上皇と交渉をもち,僧兵の鎮圧などに活躍した。…

※「平治の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

今日のキーワード

新華社

中華人民共和国の国営通信社。新華通訊社が正式名称。 1931年延安で創立され,48年北京に移り,現在は政府国務院新聞総署の管轄下にある。特に文化大革命以後は重要度が高まり,党と政府の発表はここを通じて...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android