左大臣藤原頼長(よりなが)の日記。「宇槐記(うかいき)」「槐記」「宇左記」「宇治左府記」「治相記(じそうき)」ともいう。『台記』という書名は大臣の唐名三台(さんだい)に由来する。槐(槐樹・槐門)も大臣の異称。頼長17歳の1136年(保延2)から55年(久寿2)の間が、若干の欠落を伴いながら現存する。本書の記述は、頼長の和漢典籍への深い造詣(ぞうけい)と文筆力に支えられて、明晰(めいせき)かつ個性的であり、単なる儀式の記録を超えて、政治や社会事象に対する頼長独特の判断が積極的に語られているところに特徴がある。頼長自身の波瀾(はらん)に富んだ生涯はもとより、陰り始めた当時の摂関家(せっかんけ)内部の複雑な状況、貴族社会の構造や人間関係、鳥羽(とば)院政の実体やそれをめぐる貴族の動向、寺社、武士、庶民を含む世相の特徴などを知る格好の素材となっている。自筆本は現存しないが、鎌倉時代の古写本(一部分)を最古とし江戸時代まで各種の写本が伝存し、三条西公条(さんじょうにしきんえだ)が本書を抄録した『宇槐記抄』も存在する。なお頼長は、とくに重要な儀式関係記事については別記(べっき)をつくっており、これも各種写本として伝えられている。『史料大観』『史料大成』所収。
[義江彰夫]
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…しかし55年(久寿2)近衛天皇の死去を機として,鳥羽法皇の信任を失い,さらに後白河天皇の践祚(せんそ)により皇子の践祚の望みを断たれた崇徳上皇と手を結び,56年法皇の没後間もなく兵を挙げたが,敗れて南都に逃れ,戦場でうけた重傷のため命を落とした。その日記《台記》は,生彩に富んだ公家日記として名高い。保元の乱【橋本 義彦】。…
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