藤田茂吉(読み)フジタ モキチ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「藤田茂吉」の解説

藤田 茂吉
フジタ モキチ


肩書
衆院議員,郵便報知新聞主幹

旧名・旧姓
旧姓=林

別名
号=藤田鳴鶴 鶴谷山人 九皐外史

生年月日
嘉永5年6月25日(1852年)

出生地
豊後国南海郡佐伯村(大分県佐伯市)

学歴
慶応義塾明治7年〕卒

経歴
明治4年上京、慶応義塾に入学。8年報知社に入社し、直ちに「郵便報知新聞」(のちの「報知新聞」)主幹となって民権の立場から東京日日の福地源一郎論戦した。以後、報知新聞で名記者として知られ、19年退社。この間、14年東京府会議員、15年立憲改進党に参加。日本橋区会議員、同区議長を歴任。20年甲信鉄道社長。23年東京府4区から衆院議員に当選し、25年再選。議員集会所に所属。著書に「文明東漸史」「済民偉業録」「春宵夜話」などがある。

没年月日
明治25年8月19日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「藤田茂吉」の意味・わかりやすい解説

藤田茂吉 (ふじたもきち)
生没年:1852-92(嘉永5-明治25)

明治時代の新聞記者,政治家。号は鳴鶴(めいかく)。豊後佐伯藩士林家の三男として生まれ,のち姻戚藤田氏を継ぐ。1871年(明治4)上京,慶応義塾で福沢諭吉に認められ,75年《郵便報知新聞》に入り主幹となり,《東京日日新聞》の福地源一郎と論戦し自由民権の立場から国会開設を主張した。のち讒謗律(ざんぼうりつ)・新聞紙条例で弾圧されるが,86年退社まで論説,詩,翻訳で筆を振るう。82年大隈重信の改進党創立にくみする。87年甲信鉄道会社社長となる。東京府会議員(1881),衆院議員(1890)を務める。主著に《文明東漸史》《濟民偉業録》がある。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「藤田茂吉」の意味・わかりやすい解説

藤田茂吉【ふじたもきち】

明治の新聞記者,政治家。鳴鶴(めいかく)と号。豊後(ぶんご)国佐伯(さいき)藩士出身。慶応義塾に学び,福沢諭吉に見いだされ1875年報知社に入社,《郵便報知新聞》の主幹として自由民権の論陣を張った。1882年大隈重信の立憲改進党結成に参加。1890年衆議院議員に当選。著書《文明東漸史》は洋学発達史,《済民偉業録》は政治小説

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤田茂吉」の意味・わかりやすい解説

藤田茂吉
ふじたもきち

[生]嘉永5(1852).6. 豊後
[没]1892.8.19. 東京
明治のジャーナリスト。慶應義塾に学んだのち,1875年『郵便報知新聞』に主筆として入社。『東京日日新聞』の福地源一郎と対峙して民権論,国会開設論を展開,『郵便報知』の紙価を高めた。大隈重信の立憲改進党組織を援助し,同党の中堅幹部として活躍,第1回衆議院議員総選挙に当選した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤田茂吉」の解説

藤田茂吉 ふじた-もきち

1852-1892 明治時代の新聞記者,政治家。
嘉永(かえい)5年6月25日生まれ。相馬御風(そうま-ぎょふう)は娘婿。「郵便報知新聞」の主幹として,自由民権の立場から「東京日日新聞」の福地桜痴と論戦。明治15年立憲改進党結成にくわわり,23年衆議院議員(当選2回)。明治25年8月19日死去。41歳。豊後(ぶんご)(大分県)出身。慶応義塾卒。旧姓は林。号は鳴鶴。著作に「文明東漸(とうぜん)史」「済民偉業録」など。

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