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蘇我入鹿 そがのいるか

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

蘇我入鹿
そがのいるか

[生]?
[没]皇極4(645).6.12. 大和
古代の中央豪族。蝦夷 (えみし) の子。鞍作臣とも呼ばれた。皇極天皇のときの権臣で,その権力は大臣の父蝦夷よりまさっていたといわれる。入鹿聖徳太子の死後,上宮王家を排斥し,皇極2 (643) 年舒明天皇の皇子で,馬子の娘の生んだ古人大兄王を即位させるために,太子の子山背大兄王の一族を斑鳩に襲って斑鳩寺 (法隆寺) で自殺させた。翌3年甘橿丘 (あまかしのおか) に家を建て並べ,父の家を「宮門 (みかど) 」,自分の家を「谷 (はざま) の宮門」と呼び,子を王子と称して家を武力で固めた。この強圧政策のため人心は動揺した。この前後から,中大兄皇子 (のちの天智天皇) と中臣鎌子 (のちの藤原鎌足) は,反対派の豪族たちと蘇我氏討滅の計を進めていたが,三韓朝貢の日,ついにクーデターを断行。入鹿は飛鳥板蓋宮大極殿で殺された。

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百科事典マイペディアの解説

蘇我入鹿【そがのいるか】

蘇我蝦夷(えみし)の子。蝦夷から大臣(おおおみ)の任を譲られ,権勢は父をもしのいだ。舒明(じょめい)天皇没後,古人(ふるひと)皇子を即位させようとし,聖徳太子の子山背大兄(やましろのおおえ)王を殺したが,その専横を憎まれ大化改新の手始めとして645年中大兄(なかのおおえ)皇子らに暗殺された。
→関連項目乙巳の変

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

蘇我入鹿 そがの-いるか

?-645 飛鳥(あすか)時代の豪族。
蘇我蝦夷(えみし)の子。父とともに国政をほしいままにし,皇極天皇2年蘇我系の古人大兄(ふるひとのおおえの)皇子の即位の妨げとなる山背大兄(やましろのおおえの)王(聖徳太子の子)らをほろぼす。皇極天皇4年6月12日蘇我氏打倒をめざす中大兄(なかのおおえの)皇子(天智(てんじ)天皇)と中臣(なかとみの)(藤原)鎌足(かまたり)らに暗殺された。通称は林臣(はやしのおみ),鞍作(くらつくり)。

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朝日日本歴史人物事典の解説

蘇我入鹿

没年:大化1.6.12(645.7.10)
生年:生年不詳
皇極朝(642~645)の大臣。林臣,宗我太郎,林太郎,鞍作とも称する。蝦夷の子。動物の海豚にちなむ名か。中臣鎌足らと共に僧旻の教えを受け,「吾が堂に入る者に宗我太郎に如く者なし」と評される。皇極朝にはみずから国政をとり,その威は父にまさるとされた。皇極2(643)年,大臣位を父の蝦夷から継承すると,古 人大兄皇子を次期大王とするために,競争相手である山背大兄王ら上宮王家一族を斑鳩宮(奈良県斑鳩町)に襲い滅亡させた。父の蝦夷と共に自らを天子に擬する専横ぶりが伝えられ,同4年,中大兄皇子(のちの天智天皇)らによっておこされた「大化の改新」の発端になったクーデタにより,飛鳥板蓋宮で殺害された。戦前の教科書などには悪逆非道な人物として描かれていたが,近年その人物像は再評価されるようになった。なお,飛鳥寺の近くに蘇我入鹿首塚(奈良県明日香村)がある。<参考文献>門脇禎二『蘇我蝦夷・入鹿』

(仁藤敦史)

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世界大百科事典 第2版の解説

そがのいるか【蘇我入鹿】

?‐645(大化1)
飛鳥時代の廷臣。蘇我毛人(蝦夷(えみし))の子。名は鞍作(くらつくり)といい,蘇我林臣鞍作,林太郎,蘇我大郎ともいわれた。青年時代の入鹿は,唐から帰国した新漢人旻(いまきのあやひとみん)の学堂に学んだが,旻から第一級の人物と評価された,と《家伝》は伝えている。642年1月,皇極天皇が即位したころは,入鹿の権勢はすでに父の大臣毛人を凌ぎ,国政を左右するほどであった,という。翌643年10月には,入鹿は父から紫冠を授けられ,大臣の位を認められた。

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大辞林 第三版の解説

そがのいるか【蘇我入鹿】

?~645) 蘇我蝦夷えみしの子。鞍作とも。天皇家と威勢を競い、聖徳太子の子山背大兄王を殺害。大化改新で中大兄皇子・中臣鎌足に殺された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

蘇我入鹿
そがのいるか
(?―645)

飛鳥(あすか)時代の高官。蘇我毛人(えみし)(蝦夷)の子。蘇我鞍作(くらつくり)、蘇我林臣(はやしのおみ)鞍作、蘇我太郎、林太郎などとも記された。入鹿を入霞と記すものもある。642年(皇極天皇1)正月、皇極(こうぎょく)天皇の即位したときには入鹿(鞍作)の権勢はすでに父の大臣毛人(蝦夷)をしのぎ国政を左右したと『日本書紀』は記す。しかし藤原家伝によれば、入鹿は唐から帰国した旻(みん)の学堂に出入し、旻から第一級の人物としての評価を受けたと記される。643年10月、入鹿は父の毛人(蝦夷)から紫冠を授けられ大臣の位に擬された。この直後に、入鹿らは、天皇位を望む大兄山背(おおえやましろ)皇子とその一族の覆滅を謀った。これは、舒明(じょめい)天皇即位時の紛争があとを引き、さらに舒明天皇没後にも大兄山背皇子の即位が実現されなかったことが原因となり、山背皇子やその支持勢力が不満を募らせ、彼らが蘇我大臣らの政治にさまざまに抵抗したからである。その結果、翌11月、入鹿、軽(かる)皇子(次の孝徳(こうとく)天皇)、巨勢臣徳太(こせのおみとこだ)、大伴連馬飼(おおとものむらじうまかい)、土師連娑姿(はじのむらじさば)らは軍を起こし、大兄山背皇子とその一族を斑鳩(いかるが)宮に急襲し、これを覆滅した。これを知った父の毛人(蝦夷)は怒り嘆いたという。事件のあと、古人(ふるひと)皇子が大兄とされたが、以後、蘇我本宗家に対する反感が急速に高まり、645年春から難波(なにわ)への遷都も日程に上ってくると、本宗家討滅計画がひそかに進められた。これに対し、毛人、入鹿も甘檮岡(あまかしのおか)に堅固に家を構えて備えた。しかし、645年6月12日、飛鳥板蓋(いたぶき)宮での三韓進調とされる儀式の場で、入鹿は、中臣鎌子(なかとみのかまこ)(鎌足(かまたり))と謀った中大兄(なかのおおえ)皇子、佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)らによって暗殺された。[門脇二]
『門脇二著『蘇我蝦夷・入鹿』(1977・吉川弘文館)』

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世界大百科事典内の蘇我入鹿の言及

【飛鳥板蓋宮】より

…日本古代の皇極朝および斉明朝の宮。蘇我入鹿誅滅事件の舞台となったことで有名。642年(皇極1)9月に造営が開始され,翌年4月に,皇極女帝は東宮南庭の権宮(かりみや)から飛鳥板蓋宮に移った。…

【乙巳の変】より

…干支が乙巳にあたる645年(大化1),中大兄皇子(後の天智天皇),中臣鎌子(後の藤原鎌足)らが蘇我大臣家を滅ぼして新政権を樹立した政変。皇極女帝のもとで,皇位継承や政治方針に関し大臣の蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子と対立していた女帝の長子中大兄らは,唐の興隆により国際関係が緊張して高句麗や百済には政変が起き,643年冬には皇位継承の有力候補だった山背(やましろ)大兄皇子(王)一家が入鹿に滅ぼされると,蘇我一族の倉山田石川麻呂(くらのやまだのいしかわのまろ)らを同志として大臣家打倒を決意し,645年6月12日,皇居の正殿で石川麻呂が〈三韓の表文(ひようぶん)〉と称する外交文書を読みあげている最中に,中大兄が率先して入鹿を斬り,雇っていた暗殺者たちがこれを殺し,翌日には蝦夷も護衛兵らに逃亡されて自殺した。…

【妹背山婦女庭訓】より

…角書に〈十三鐘絹懸柳〉とある。近松門左衛門の《大職冠》など藤原鎌足の蘇我入鹿誅戮に取材した先行作を踏まえ,大和に伝わる十三鐘や衣掛け柳,苧環(おだまき)伝説を加えて脚色したもの。道行は,豊後系の浄瑠璃にも改作されている。…

【入鹿】より

…上演記録の初出は1581年(天正9)(《家忠日記》)。藤原鎌足による蘇我入鹿退治の物語で,舞曲《大織冠(たいしよかん)》とともに奈良春日神社,興福寺の縁起譚(えんぎたん)をなす。本曲では鎌足の出生地を常陸国鹿島とし,名の由来を幼時に狐の与えた鎌にちなむとし,その鎌で入鹿の首を打ち落としたとする。…

【大化改新】より

…7世紀半ばの国政改革。狭義では,大化年間(645‐650)に試みられた中央集権的諸改革を指すが,広義では,その目標がほぼ達成される大宝律令の制定施行(701)までの約半世紀を含める。
[原因]
 原因を条件と契機とに分ければ,7世紀半ばころには日本でもなんらかの国政改革が試みられるのが必然であった条件として,6世紀末から7世紀前半にかけての中国大陸に隋・唐という中央集権的大統一国家が出現し,周辺諸国,とくに朝鮮半島の国々を圧迫しはじめたという国際環境が挙げられる。…

【藤原鎌足】より

…その中大兄を中心にして蘇我大臣家の打倒を計画し,645年(大化1),これに成功して孝徳天皇のもとに皇太子中大兄を首班とする新政権を樹立,国政の改革に着手した(乙巳(いつし)の変)。この政変に際して,蘇我一族を分裂させるために蘇我同族の石川麻呂(いしかわのまろ)の娘を中大兄に嫁がせたり,蘇我入鹿(いるか)を油断させて暗殺したり,叔父の孝徳を天皇に推戴しながら実権は甥の中大兄に掌握させておくなどは,みな鎌足の立案によるといわれ,そののち鎌足の子孫が平安時代にかけて政権を掌握してゆく過程でも,皇室との婚姻政策をはじめとするこのような策略は繰り返し用いられている。新政権内部でも鎌足は内臣として中大兄の側近となり,冠位は改新後に大錦(後の正四位相当),孝徳朝末年に大紫(正三位相当)を授けられ,そのたびに巨額の封戸(ふこ)や功田(こうでん)を賜って,後の藤原氏の世襲財産の基礎をつくった。…

※「蘇我入鹿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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