飛鳥時代の廷臣。蘇我毛人(蝦夷(えみし))の子。名は鞍作(くらつくり)といい,蘇我林臣鞍作,林太郎,蘇我大郎ともいわれた。青年時代の入鹿は,唐から帰国した新漢人旻(いまきのあやひとみん)の学堂に学んだが,旻から第一級の人物と評価された,と《家伝》は伝えている。642年1月,皇極天皇が即位したころは,入鹿の権勢はすでに父の大臣毛人を凌ぎ,国政を左右するほどであった,という。翌643年10月には,入鹿は父から紫冠を授けられ,大臣の位を認められた。この直後から入鹿らは,聖徳太子の子の大兄山背皇子の上宮王家の討滅を謀りはじめた。山背皇子らは,舒明天皇即位時の紛糾以来まだ即位の望みを捨てず,舒明天皇の死後もその即位が見送られてきたことに不満をつのらせ,大臣毛人や入鹿の政治にさまざまの抵抗を示していたからである。そのため入鹿らは,山背皇子を排し,大兄(おおえ)を蘇我系の古人皇子に代えようとした。11月,入鹿は軽皇子(次の孝徳天皇),巨勢徳太,大伴馬飼らとともに軍をおこし,山背皇子を斑鳩(いかるが)宮に急襲しその一族ことごとくを覆滅した。これを知った毛人は怒り嘆いたという。このあと,入鹿に対する反感が急速に高まり,645年春から難波への遷都も日程に上ってくると,蘇我本宗家討滅計画が中臣鎌子(鎌足),葛城皇子(中大兄)らによってひそかにすすめられた。その結果,6月に,飛鳥板蓋(いたぶき)宮での三韓進調とされる儀式の場で,入鹿は暗殺され,つづいて父毛人も甘檮(あまかし)岡(甘樫丘)の邸に火を放って自殺した。
→乙巳の変(いつしのへん)
執筆者:門脇 禎二
入鹿が山背大兄王以下の聖徳太子の子孫を滅ぼし,やがて中臣鎌子らによって大極殿に殺されることは《日本書紀》に記されるが,これは《聖徳太子伝暦》の後半部に継承され,以降,主として太子伝の領域で入鹿像が形成される。すでに《書紀》は入鹿を威を振るい王位を奪おうとする逆臣として描き,鎌足や中大兄皇子による謀殺を正当化しているが,その際に入鹿が人となり疑いぶかく昼夜剣をはいていたのを,俳優(わざひと)に戯れさせて解かせたというような物語的要素が含まれている。《伝暦》は中世太子伝のなかでいっそう物語化され,そのなかで入鹿の凡人にあらざる威勢の様と謀叛のはかりごとが強調された。たとえば前者では,入鹿は庭に鳥形を戴いた鉄柱を建てこれを眼力で睨み落としたという邪視の説話がみられ,後者は,法興寺槻樹の下で蹴鞠のとき,中大兄皇子の鞋が脱げたとされているが,これも皇子の足を直接地に踏ませて王位につけなくするはかりごとであるというものである。このときに足を手でうけたのが鎌足であり,入鹿を討つために鎌足が計略をめぐらすことなどが物語られて,入鹿と鎌足の説話は分かちがたく展開していく。その入鹿退治説話は藤原氏のはじまりに関する伝承として,春日社の縁起《春夜神記》を中心に中世に流布し,《旅宿問答》等に記されつつ舞曲《入鹿》として芸能化される。そこで入鹿は逆臣ながら〈大通力の人にて三年(みとせ)の事を兼て知〉る者とされ,鎌足の計略を悟って容易に心を許さない。鎌足は盲目を装って子を火中に落として死なせることにより,ようやく油断させて討つ。首を落とされた入鹿の死体はなお王を害そうとするというが,それは太子伝などに首が幾度も躍りあがったり御簾に食いついたりしたという伝承にもとづく。入鹿と鎌足の相克は,やがて同じく舞曲《大織冠(たいしよかん)》とともに一連の世界として近世に継承され,古浄瑠璃《大織冠魔王合戦(別名入鹿大臣)》を経て《妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)》に至る。そこでは入鹿が典型的な公家悪(くげあく)として造型され,王位を奪い取るために種々の外道の法を行う超人的な悪の化身となって活躍している。つまり入鹿は終始,王権にたいする奪(さんだつ)者の典型として形象された。
→藤原鎌足[伝承]
執筆者:阿部 泰郎
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飛鳥(あすか)時代の高官。蘇我毛人(えみし)(蝦夷)の子。蘇我鞍作(くらつくり)、蘇我林臣(はやしのおみ)鞍作、蘇我太郎、林太郎などとも記された。入鹿を入霞と記すものもある。642年(皇極天皇1)正月、皇極(こうぎょく)天皇の即位したときには入鹿(鞍作)の権勢はすでに父の大臣毛人(蝦夷)をしのぎ国政を左右したと『日本書紀』は記す。しかし藤原家伝によれば、入鹿は唐から帰国した旻(みん)の学堂に出入し、旻から第一級の人物としての評価を受けたと記される。643年10月、入鹿は父の毛人(蝦夷)から紫冠を授けられ大臣の位に擬された。この直後に、入鹿らは、天皇位を望む大兄山背(おおえやましろ)皇子とその一族の覆滅を謀った。これは、舒明(じょめい)天皇即位時の紛争があとを引き、さらに舒明天皇没後にも大兄山背皇子の即位が実現されなかったことが原因となり、山背皇子やその支持勢力が不満を募らせ、彼らが蘇我大臣らの政治にさまざまに抵抗したからである。その結果、翌11月、入鹿、軽(かる)皇子(次の孝徳(こうとく)天皇)、巨勢臣徳太(こせのおみとこだ)、大伴連馬飼(おおとものむらじうまかい)、土師連娑姿(はじのむらじさば)らは軍を起こし、大兄山背皇子とその一族を斑鳩(いかるが)宮に急襲し、これを覆滅した。これを知った父の毛人(蝦夷)は怒り嘆いたという。事件のあと、古人(ふるひと)皇子が大兄とされたが、以後、蘇我本宗家に対する反感が急速に高まり、645年春から難波(なにわ)への遷都も日程に上ってくると、本宗家討滅計画がひそかに進められた。これに対し、毛人、入鹿も甘檮岡(あまかしのおか)に堅固に家を構えて備えた。しかし、645年6月12日、飛鳥板蓋(いたぶき)宮での三韓進調とされる儀式の場で、入鹿は、中臣鎌子(なかとみのかまこ)(鎌足(かまたり))と謀った中大兄(なかのおおえ)皇子、佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)らによって暗殺された。
[門脇禎二]
『門脇禎二著『蘇我蝦夷・入鹿』(1977・吉川弘文館)』
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(仁藤敦史)
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?~645.6.12
林臣・宗我大郎・鞍作とも。7世紀中葉の官人。蝦夷(えみし)の子。「家伝」上によると,僧旻(みん)の塾に学び,高い評価をうけた。「日本書紀」によると,皇極朝にはみずから国政を執って威は父蝦夷に勝ったという。642年(皇極元)蝦夷の造った双墓のうち,一つを小陵と称してみずからの墓とし,643年,蝦夷は病により出仕せず,私的に紫冠を入鹿に授けて大臣の位に擬した。同年,上宮王家を滅亡させ,644年,蝦夷と入鹿は甘檮岡(あまかしのおか)に家を並べてたて,蝦夷の家を上の宮門(みかど),入鹿の家を谷の宮門と称し,子を王子(みこ)とよばせた。645年(大化元)三韓進調の日,中大兄(なかのおおえ)皇子らによって大極殿で斬られ,死体は蝦夷のもとに届けられた。
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…日本古代の皇極朝および斉明朝の宮。蘇我入鹿誅滅事件の舞台となったことで有名。642年(皇極1)9月に造営が開始され,翌年4月に,皇極女帝は東宮南庭の権宮(かりみや)から飛鳥板蓋宮に移った。…
…干支が乙巳にあたる645年(大化1),中大兄皇子(後の天智天皇),中臣鎌子(後の藤原鎌足)らが蘇我大臣家を滅ぼして新政権を樹立した政変。皇極女帝のもとで,皇位継承や政治方針に関し大臣の蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子と対立していた女帝の長子中大兄らは,唐の興隆により国際関係が緊張して高句麗や百済には政変が起き,643年冬には皇位継承の有力候補だった山背(やましろ)大兄皇子(王)一家が入鹿に滅ぼされると,蘇我一族の倉山田石川麻呂(くらのやまだのいしかわのまろ)らを同志として大臣家打倒を決意し,645年6月12日,皇居の正殿で石川麻呂が〈三韓の表文(ひようぶん)〉と称する外交文書を読みあげている最中に,中大兄が率先して入鹿を斬り,雇っていた暗殺者たちがこれを殺し,翌日には蝦夷も護衛兵らに逃亡されて自殺した。…
…角書に〈十三鐘絹懸柳〉とある。近松門左衛門の《大職冠》など藤原鎌足の蘇我入鹿誅戮に取材した先行作を踏まえ,大和に伝わる十三鐘や衣掛け柳,苧環(おだまき)伝説を加えて脚色したもの。道行は,豊後系の浄瑠璃にも改作されている。…
…上演記録の初出は1581年(天正9)(《家忠日記》)。藤原鎌足による蘇我入鹿退治の物語で,舞曲《大織冠(たいしよかん)》とともに奈良春日神社,興福寺の縁起譚(えんぎたん)をなす。本曲では鎌足の出生地を常陸国鹿島とし,名の由来を幼時に狐の与えた鎌にちなむとし,その鎌で入鹿の首を打ち落としたとする。…
…7世紀半ばの国政改革。狭義では,大化年間(645‐650)に試みられた中央集権的諸改革を指すが,広義では,その目標がほぼ達成される大宝律令の制定施行(701)までの約半世紀を含める。
[原因]
原因を条件と契機とに分ければ,7世紀半ばころには日本でもなんらかの国政改革が試みられるのが必然であった条件として,6世紀末から7世紀前半にかけての中国大陸に隋・唐という中央集権的大統一国家が出現し,周辺諸国,とくに朝鮮半島の国々を圧迫しはじめたという国際環境が挙げられる。…
…その中大兄を中心にして蘇我大臣家の打倒を計画し,645年(大化1),これに成功して孝徳天皇のもとに皇太子中大兄を首班とする新政権を樹立,国政の改革に着手した(乙巳(いつし)の変)。この政変に際して,蘇我一族を分裂させるために蘇我同族の石川麻呂(いしかわのまろ)の娘を中大兄に嫁がせたり,蘇我入鹿(いるか)を油断させて暗殺したり,叔父の孝徳を天皇に推戴しながら実権は甥の中大兄に掌握させておくなどは,みな鎌足の立案によるといわれ,そののち鎌足の子孫が平安時代にかけて政権を掌握してゆく過程でも,皇室との婚姻政策をはじめとするこのような策略は繰り返し用いられている。新政権内部でも鎌足は内臣として中大兄の側近となり,冠位は改新後に大錦(後の正四位相当),孝徳朝末年に大紫(正三位相当)を授けられ,そのたびに巨額の封戸(ふこ)や功田(こうでん)を賜って,後の藤原氏の世襲財産の基礎をつくった。…
※「蘇我入鹿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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