山田集落南西、飛鳥に通じる山田道の傍らに所在。
とみえる。また「上宮聖徳法王帝説」裏書に「
とある。なお建久八年(一一九七)の「多武峯略記」末寺章には「安置十一面観音像、長五尺、長元七年、検校善妙当大臣之忌日、始修法華八講、堂塔鐘楼経蔵等跡、今猶在之」と後年の状態を記し、当時は
〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
奈良県桜井市山田にある寺院跡。法号は浄土寺で,蘇我石川麻呂によって創建された。造営過程については《上宮聖徳法王帝説》裏書に詳しい。それによると,641年(舒明13)整地され,643年(皇極2)の金堂建立後,649年(大化5)石川麻呂は謀反の疑いをかけられ,金堂前で自害する。その後の建立は石川麻呂の孫娘鸕野皇女(のちの持統天皇)らの尽力によって進められた。676年(天武5)塔が完成し,講堂建立ののち,685年,後に旧山田寺仏頭と呼ばれる丈六仏が開眼し,1187年(文治3)丈六仏は興福寺東金堂に移る。山田寺は12~13世紀ころ,罹災によって廃絶したらしい。発掘調査などによって塔,金堂,講堂が中軸線上に並ぶ配置であることがわかったが,北面回廊が金堂と講堂の間を通る配置をとり,いわゆる四天王寺式の伽藍配置とするより,飛鳥寺式の東西両金堂を省略した形式としている。1982年東面回廊の一部を倒壊したままの姿で発掘した。山田寺から出土する軒丸瓦は蓮弁内に子葉をもつ八葉の単弁蓮華文で山田寺式軒丸瓦と称され,各地の寺院に影響を与えた。1952年に国の特別史跡に指定された。
執筆者:猪熊 兼勝
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
奈良県桜井市山田にあった寺。山号は大化山。浄土(じょうど)寺、華厳(けごん)寺とも称した。法相(ほっそう)宗に属する。蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわのまろ)の発願によって創建。蘇我蝦夷(えみし)による豊浦寺(とゆらでら)や舒明(じょめい)天皇の百済(くだら)大寺などと妍(けん)を競って造営された。641年(舒明天皇13)着工し、2年後には金堂が完成したが、右大臣石川麻呂が無実の罪を得て金堂前で一族もろとも自殺した。その後、冤罪(えんざい)は晴れ、造営は継続されて、663年(天智天皇2)竣工(しゅんこう)、684年本尊丈六像の開眼供養が挙行された。1187年(文治3)興福寺衆徒の強奪により堂塔を焼亡。現在、奈良興福寺に蔵する銅造仏頭(国宝)はもと山田寺講堂本尊であったが、このとき衆徒に奪取され、1411年(応永18)火災にあい頭部だけが残った。建久(けんきゅう)年間(1190~99)には荒廃し、廃寺となった。伽藍(がらん)配置は飛鳥寺(あすかでら)式から東西両金堂を省いた形式の一塔一金堂式で、隋(ずい)唐の寺院に共通する形式であった。1976年(昭和51)寺跡発掘調査の際、回廊の一部が倒壊したまま出現し、古代寺院建築について多くの資料を提供した。出土した瓦(かわら)は単弁八葉蓮華文軒丸瓦(れんげもんのきまるがわら)が多く、山田寺式とよばれる。寺跡は特別史跡。
[里道徳雄]
浄土寺・華厳寺とも。奈良県桜井市山田にある飛鳥時代を代表する寺院跡。蘇我石川麻呂によって,641年(舒明13)に創建された。石川麻呂の自害後,一時建造が中断されたが,天智朝に再開,講堂の本尊が685年(天武14)に完成。1187年(文治3)講堂の本尊が興福寺に奪われ(頭部のみ興福寺に現存,国宝),その後まもなく伽藍は荒廃したと考えられる。1976年(昭和51)からの調査で,南門・中門・塔・金堂・講堂などが判明。廻廊が金堂と講堂の間で閉じる四天王寺式伽藍配置。82年に倒壊状態で発見された東面廻廊では,棟木と扠首(さす)を除くすべての部材がそろい,法隆寺より古い木造建築がよみがえった。寺跡は国特別史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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