山田寺(読み)ヤマダデラ

デジタル大辞泉 「山田寺」の意味・読み・例文・類語

やまだ‐でら【山田寺】

奈良県桜井市山田にあった寺。蘇我石川麻呂発願により、天智天皇2年(663)に建立四天王寺式伽藍配置をもつ。

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精選版 日本国語大辞典 「山田寺」の意味・読み・例文・類語

やまだ‐でら【山田寺】

  1. 奈良県桜井市山田にある寺院址蘇我倉山田石川麻呂の創建による。飛鳥寺式に近い伽藍配置をもち、講堂本尊は興福寺山田寺仏頭として知られる。発掘によって、横倒しとなり埋没していた東廻廊建物の一部の連子窓・頭貫・柱などが発見された。国特別史跡

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日本歴史地名大系 「山田寺」の解説

山田寺
やまだでら

[現在地名]桜井市大字山田

山田集落南西、飛鳥に通じる山田道の傍らに所在。浄土じようど寺・華厳けごん寺ともいう。大化山と号し法相宗。本尊は長谷寺式の十一面観音。大化改新以後の政変で蘇我倉山田石川麻呂が当寺で自殺。「日本書紀」大化五年(六四九)三月二四日・二五日条に

資料は省略されています>

とみえる。また「上宮聖徳法王帝説」裏書に「辛丑(六四一)年始平地、癸卯(六四三)年立金堂之、戊申(六四八)始僧住、己酉(六四九)年三月廿五日、大臣遇害」とあり、さらに天智天皇二年(六六三)に塔を構え、天武天皇六年(六六七)に丈六仏像を鋳、同一三年開眼し、これを山田寺と称したという。同一四年八月一二日には浄土寺行幸があり(日本書紀)、文武天皇三年(六九九)六月一五日には山田寺に封三〇〇戸が施入されている(続日本紀)。「諸寺建立次第」山田寺条には、

<資料は省略されています>

とある。なお建久八年(一一九七)の「多武峯略記」末寺章には「安置十一面観音像、長五尺、長元七年、検校善妙当大臣之忌日、始修法華八講、堂塔鐘楼経蔵等跡、今猶在之」と後年の状態を記し、当時は多武峯とうのみね(現桜井町)の末寺となっていた。

〈大和・紀伊寺院神社大事典〉

〔遺構〕

現在は小堂と庫裏があるだけだが、境内には往時伽藍遺構をとどめる。国指定特別史跡。伽藍配置は門・塔・金堂・講堂を南から北に並べた四天王寺式をとり、昭和五一年(一九七六)から奈良国立文化財研究所が発掘調査を続けている。

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改訂新版 世界大百科事典 「山田寺」の意味・わかりやすい解説

山田寺 (やまだでら)

奈良県桜井市山田にある寺院跡。法号は浄土寺で,蘇我石川麻呂によって創建された。造営過程については《上宮聖徳法王帝説》裏書に詳しい。それによると,641年(舒明13)整地され,643年(皇極2)の金堂建立後,649年(大化5)石川麻呂は謀反の疑いをかけられ,金堂前で自害する。その後の建立は石川麻呂の孫娘鸕野皇女(のちの持統天皇)らの尽力によって進められた。676年(天武5)塔が完成し,講堂建立ののち,685年,後に旧山田寺仏頭と呼ばれる丈六仏が開眼し,1187年(文治3)丈六仏は興福寺東金堂に移る。山田寺は12~13世紀ころ,罹災によって廃絶したらしい。発掘調査などによって塔,金堂,講堂が中軸線上に並ぶ配置であることがわかったが,北面回廊が金堂と講堂の間を通る配置をとり,いわゆる四天王寺式の伽藍配置とするより,飛鳥寺式の東西両金堂を省略した形式としている。1982年東面回廊の一部を倒壊したままの姿で発掘した。山田寺から出土する軒丸瓦は蓮弁内に子葉をもつ八葉の単弁蓮華文で山田寺式軒丸瓦と称され,各地の寺院に影響を与えた。1952年に国の特別史跡に指定された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山田寺」の意味・わかりやすい解説

山田寺
やまだでら

奈良県桜井市山田にあった寺。山号は大化山。浄土(じょうど)寺、華厳(けごん)寺とも称した。法相(ほっそう)宗に属する。蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわのまろ)の発願によって創建。蘇我蝦夷(えみし)による豊浦寺(とゆらでら)や舒明(じょめい)天皇の百済(くだら)大寺などと妍(けん)を競って造営された。641年(舒明天皇13)着工し、2年後には金堂が完成したが、右大臣石川麻呂が無実の罪を得て金堂前で一族もろとも自殺した。その後、冤罪(えんざい)は晴れ、造営は継続されて、663年(天智天皇2)竣工(しゅんこう)、684年本尊丈六像の開眼供養が挙行された。1187年(文治3)興福寺衆徒の強奪により堂塔を焼亡。現在、奈良興福寺に蔵する銅造仏頭(国宝)はもと山田寺講堂本尊であったが、このとき衆徒に奪取され、1411年(応永18)火災にあい頭部だけが残った。建久(けんきゅう)年間(1190~99)には荒廃し、廃寺となった。伽藍(がらん)配置は飛鳥寺(あすかでら)式から東西両金堂を省いた形式の一塔一金堂式で、隋(ずい)唐の寺院に共通する形式であった。1976年(昭和51)寺跡発掘調査の際、回廊の一部が倒壊したまま出現し、古代寺院建築について多くの資料を提供した。出土した瓦(かわら)は単弁八葉蓮華文軒丸瓦(れんげもんのきまるがわら)が多く、山田寺式とよばれる。寺跡は特別史跡。

[里道徳雄]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「山田寺」の解説

山田寺
やまだでら

浄土寺・華厳寺とも。奈良県桜井市山田にある飛鳥時代を代表する寺院跡。蘇我石川麻呂によって,641年(舒明13)に創建された。石川麻呂の自害後,一時建造が中断されたが,天智朝に再開,講堂の本尊が685年(天武14)に完成。1187年(文治3)講堂の本尊が興福寺に奪われ(頭部のみ興福寺に現存,国宝),その後まもなく伽藍は荒廃したと考えられる。1976年(昭和51)からの調査で,南門・中門・塔・金堂・講堂などが判明。廻廊が金堂と講堂の間で閉じる四天王寺式伽藍配置。82年に倒壊状態で発見された東面廻廊では,棟木と扠首(さす)を除くすべての部材がそろい,法隆寺より古い木造建築がよみがえった。寺跡は国特別史跡。

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百科事典マイペディア 「山田寺」の意味・わかりやすい解説

山田寺【やまだでら】

奈良県桜井市山田にある寺。浄土寺,華厳寺とも。本尊十一面観音。大化改新の功臣蘇我石川麻呂が創建,649年石川麻呂が自殺したのち天智天皇がその追福のために尽力,四天王寺式の伽藍(がらん)配置をもつ寺が完成,685年には丈六の薬師如来像の開眼供養をした。現在興福寺にある仏頭はこの頭部。室町以後荒廃した。境内に残る往時の遺構調査では四天王寺式と異なる点もみられ,寺跡は国指定特別史跡。
→関連項目興福寺

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山田寺」の意味・わかりやすい解説

山田寺
やまだでら

奈良県桜井市所在の飛鳥時代の寺院跡。特別史跡。皇極2 (643) 年に金堂の建立とされる。 1976年より発掘調査が進められた。伽藍配置は中門,塔,金堂,講堂を一直線に並べる四天王寺式に近いが,北面回廊は講堂まで延びず,金堂背面で閉じていたと推定されている。第4・5次調査で東回廊跡から倒壊した回廊が発見され,ほぼ完全な姿で飛鳥時代の建築部材が出土した。建築部材が完全な形で出土する例は珍しく,貴重な資料となっている。

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