伊勢氏 (いせうじ)
室町期の武家。幕府政所(まんどころ)執事の家系。桓武平氏の出自といわれ,鎌倉後期に足利氏に仕えて伊勢守の官途を受け,伊勢姓を称した。鎌倉末期には伊勢宗継が上総守護代を務めている。室町幕府成立後は,将軍子息の養育をつかさどり,殿中惣奉行,御厩別当を歴任したとの伝承があるが詳細不明。
1379年(天授5・康暦1)4月,康暦の政変によって斯波義将が管領に就任すると,二階堂氏が更迭された跡を襲って初めて政所執事に起用された。室町幕府の政所は,将軍の家産と御料所(直轄領)を管轄する政所代の系統と,幕府裁判権のうち主として雑務沙汰(債権債務をめぐる民事裁判)を管掌する政所執事代-寄人の2系列があり,前者は伊勢氏の家宰蜷川氏(にながわうじ)が,後者は政所寄人(民事担当奉行人)のうちから有力者1名が選任されて,各業務を担当した。将軍足利義満が伊勢貞信邸で出生したのをはじめ,しばしば伊勢邸が将軍妻妾の産所となり,幼年時の養育も多く伊勢邸で行われた。室町中期以降,徳政令の頻発によって政所の権限は拡大し,分一銭納入,買得安堵,祠堂銭の徳政免除等,雑務沙汰の奉書には執事が連署し,頭人加判の奉書と呼ばれた。1449-59年(宝徳1-長禄3)の一時期,二階堂氏が執事に復職するが,この時期を除いて戦国末期まで伊勢氏が世襲した。なお執事のほか,多くの所領を保持し,また大和吉野郡,尾張智多郡等の分郡守護を歴任,応仁の乱後は幾度か山城守護に任ぜられている。職務の性質上,将軍の側近としてしばしば幕政に介入し,とくに60年(寛正1)執事に就任した伊勢貞親は将軍足利義政の寵を受け,相国寺蔭涼軒主季瓊真蘂(きけいしんずい)らと斯波家,将軍家の家督紛争に関与,諸大名に排斥されて66年(文正1)没落している。最後の執事貞孝も三好長慶と結んだため1563年(永禄6)暗殺された。歴代武家故実に通じ,《伊勢貞親教訓》,貞宗の《犬追物八廻日記》等の著作を残す。子孫も近世に至って徳川家に仕官し,伊勢貞丈は《貞丈雑記》など中世武家有職に関する多くの著作をなした。
→伊勢流
執筆者:今谷 明
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伊勢氏
いせうじ
桓武平氏(かんむへいし)。維衡(これひら)の子孫といわれる。室町幕府に仕え、文武にわたり活躍した。江戸時代には伊勢流とよばれる武家故実(こじつ)家となった。鎌倉時代以前の事歴は明らかでないが、足利(あしかが)氏の近臣であったと思われる。足利義満(よしみつ)の信任が厚かった貞継(さだつぐ)(法名照禅)は、1379年(天授5・康暦1)政所(まんどころ)の執事に任ぜられ、以来嫡流は政所執事を世襲した。庶流の人々も将軍の右筆(ゆうひつ)となったり、御番衆(ごばんしゅう)(近衛兵(このえへい))になるなどして将軍に近侍した。武家故実に通じ、『伊勢貞親以来伝書(いせさだちかいらいでんしょ)』『伊勢加賀守貞満筆記(いせかがのかみさだみつひっき)』『常照愚草(じょうしょうぐそう)』『道照愚草(どうしょうぐそう)』などを残している。江戸時代の故実家で『貞丈雑記(ていじょうざっき)』『安斎随筆』を著した伊勢貞丈(さだたけ)は子孫である。
[桑山浩然]
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伊勢氏【いせうじ】
桓武平氏。鎌倉末期から足利氏の臣であったらしい。室町前期の貞継〔1309-1391〕以後は代々室町幕府政所(まんどころ)執事となり幕府財政を掌握,威をふるった。応仁・文明の乱後は幕府とともに衰えたが,武家故実に精通する家として子孫は江戸幕府に仕え,伊勢貞丈(さだたけ)が出ている。
→関連項目富田荘|蜷川親元日記
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伊勢氏
いせし
室町幕府の政所執事家。桓武平氏。鎌倉末期,平俊継(としつぐ)が伊勢守となって以後,伊勢氏を称するようになったという。代々足利氏の被官で,1330年(元徳2)足利氏の上総国守護代として宗継がみえる。79年(康暦元・天授5)貞継が政所執事となり,以来これを世襲。貞親のとき,将軍足利義政の側近として権勢をふるったが,幕府滅亡とともに衰えた。一族からは,申次衆(もうしつぎしゅう)や奉公衆を多く出した。
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伊勢氏
いせし
室町幕府の政所 (まんどころ) 執事を世襲した家
桓武平氏の流れ。俊継が伊勢守となってから伊勢氏を称し,その孫貞継が室町幕府の政所執事になって以来これを世襲。将軍足利義政に仕えた貞親のころが全盛期で,幕府の衰亡とともに衰えた。江戸中期に出た貞丈 (さだたけ) は有職故実 (ゆうそくこじつ) 家として有名。
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伊勢氏
いせうじ
桓武平氏。室町幕府政所執事を世襲した家柄。鎌倉時代初期,盛光は源頼朝に仕え,鎌倉時代末期,その6世の孫俊継は伊勢守となり,以来伊勢氏を称した。南北朝時代から室町時代を通じて代々足利氏に仕え,御厩別当,政所執事に任じられ,武家の故事に精通し,室町幕府に重きをなした。その家学は伊勢流といわれた。
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世界大百科事典(旧版)内の伊勢氏の言及
【江馬氏】より
…1372年(文中1∥応安5)江馬但馬四郎が,1471年(文明3)江馬左馬助が,飛驒岡本上下保など山科家領の確保を幕府から命ぜられている。ともに伊勢氏と関係があり,左馬助は《石山本願寺日記》に伊勢貞宗の庶子の由とみえ,江馬氏を継いだらしい。信濃守護小笠原氏とも姻戚関係にあり,応仁の乱には細川勝元方に属し,万里集九が訪れた89年(延徳1)には荒城郷にも進出していた。…
【蜷川氏】より
…家伝によれば,建武のころ蜷川親行は,足利氏の近臣で後に政所(まんどころ)執事となる伊勢貞継の仲介で足利氏に仕えた。親行の妹は貞継の息貞信の妾となって伊勢貞行を生むなど代々[伊勢氏]と婚を通じ,伊勢氏の家宰あるいは将軍の養い親として重きをなすようになった。伊勢氏が[政所]の長官に当たる執事になると政所代になって政所の実務処理に当たり,また故実にも通じていたので政界で重きをなした。…
【幕府】より
…徳川氏が清和源氏で,足利氏に対立した新田氏の支流だと称したのも,武家統合の官職である征夷大将軍に就任することを望んだためである。それゆえ徳川氏は,室町幕府の例にならって殿中の儀礼を定め,足利将軍に近侍していた吉良氏,伊勢氏らを用いて儀式典礼をつかさどらせた。源頼朝から徳川氏まで,鎌倉幕府から江戸幕府までを一貫して幕府政治,[武家政治]としてとらえる考え方もこの時代に生まれてきた。…
【松平氏】より
…3代信光は西三河の3分の1を所領とし(《[三河物語]》),松平氏は大きく発展した。信光は1465年(寛正6)には室町幕府政所執事伊勢貞親の被官であったが,被官衆は伊勢氏管理の将軍直轄領(御料所)代官に任じられる例も多く,松平氏の発展といわれるものは,伊勢氏被官としての活動の結果とみてよいであろう。さらに信光は65年の額田郡牢人一揆鎮圧の戦功により,闕所地を給付されて所領を拡大したと推測され,また応仁・文明の乱では貞親に従って東軍に属し,動乱に乗じて岡崎,安城(あんじよう)などの西三河諸城を入手し,庶子に分与したものと思われる。…
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