東京都北西部にある市。2001年(平成13)田無市(たなしし)と保谷市(ほうやし)が合併して成立。武蔵野(むさしの)台地中央部の平坦地を占め、関東ローム層に覆われる。北部を白子(しらこ)川が、南部を石神井(しゃくじい)川が西から東へ向かって流れ、浅い谷を形成する。北部を西武鉄道池袋線、南部を同新宿線が横切り、青梅街道、新青梅街道、富士街道、所沢街道、保谷街道が中央部で交わっている。
西の田無地区は、青梅街道沿いの宿場町、また所沢街道・保谷(ほうや)街道の分岐点の市場町として発達し、西武鉄道の開通(1927)を機に、住宅地、工場地として発展した。東の保谷地区は、江戸時代に玉川上水の分水として千川上水(せんかわじょうすい)が開削されて新田開発が進んだが、その後畑作地が広がり、第二次世界大戦のころまでは練馬ダイコンの産地であった。西武鉄道の開通後は工場や住宅が増え、戦後、急速に都市化が進んだ。両地区は独立して市制をしいていたが、諸街道が交差するなど生活圏が一体的な関係にあるうえ、当時、田無6.8平方キロメートル、保谷9.05平方キロメートルと、ともに面積が狭く、合併による行政サービスの向上と効率化が期待された。2000年に投票方式の市民意向調査を実施、賛成が上回った結果、合併が実現した。
野菜栽培などの農業が残り、時計、重機械、金属などの内陸型工業もみられるが、宅地化の進展で工場は移転する傾向にある。両市から東久留米(ひがしくるめ)市にかけて日本住宅公団(現、都市再生機構)のひばりが丘団地が形成された。東京大学大学院の農場、西東京いこいの森公園、京都・伏見から遷座した東伏見稲荷神社(ひがしふしみいなりじんじゃ)、プラネタリウムを備えた多摩六都科学館(1994年開館、2001年新装開館)などがある。面積15.75平方キロメートル、人口20万7388(2020)。
[編集部]
東京都中部の市。2001年1月田無(たなし)市と保谷(ほうや)市が合体して成立した。人口19万6511(2010)。
西東京市西部の旧市。1967年市制。人口7万8165(2000)。武蔵野台地中央に位置するため水利に恵まれず,江戸時代に玉川上水から田無用水が分水されて畑作が可能となった。早くから青梅街道の宿場町として開け,所沢街道が交差することから農産物の集散地として1・6の日に市が立つなど,明治まで武蔵野では府中に次いで栄えた。しかし中央本線が離れて開通したため大正末までは農村地帯の小中心地にとどまった。1927年に西武新宿線が町の中央を通って開通,都心と直結してから近郊住宅地として発展した。1923年に中島飛行機の工場が建設され,その後航空機,精密機械の大工場が相次いで進出した。第2次大戦後,これら軍需工場跡地にひばりが丘などの大住宅団地が建設され,人口増加が著しい。
西東京市東部の旧市。1967年市制。人口10万2720(2000)。東は練馬区,南は武蔵野市に接する。武蔵野台地上にあって水利に恵まれなかったが,千川(せんがわ)上水の完成により新田開発が進み,みごとな屋敷林の農家が点在する散村地帯となった。大正期末まではおもに麦類,陸稲,練馬ダイコンなどを産したが,昭和に入ると近郊農村の地の利を生かしてトマト,スイカ,サトイモなどの換金作物も導入された。1915年に武蔵野鉄道(現,西武池袋線),27年に西武新宿線が開通して,都心に直結したため,近郊住宅地化が進み,工場や学校も進出した。1950年代後半にひばりが丘団地などの大規模な住宅団地が建設され,60年代から70年代にかけて人口は急増した。1929年京都から勧請された東伏見稲荷神社がある。
執筆者:井内 昇
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