東京都北西部にある西東京市西部の地区。1967年(昭和42)市制施行、2001年(平成13)東に接する保谷市(ほうやし)と合併して西東京市となった。西武鉄道新宿線が通る。1606年(慶長11)、江戸城大修理の資材運搬の目的で青梅街道(おうめかいどう)が開かれた。その資材の石灰運送の伝馬継立ての宿場として発達し、運送にあたる人夫の食事提供のため、農家が田畑の耕作をなおざりにして街道沿いに集落を開いたことが地名のおこりという。また、武蔵野(むさしの)台地の中央部にあり、台地上の乏水性地域で水田がなかったことに由来するともいう。青梅街道沿いの宿場町、また所沢街道・保谷(ほうや)街道の分岐点の市場町として毎月一と六の日に市(いち)が開かれた。昭和以後住宅地、工場地として発展した。現在、時計、機械、特殊金属、重電機など都心から立地移動した内陸工業がみられる。宅地化も第二次世界大戦後急激に進み、保谷地区、東久留米(ひがしくるめ)市にまたがって大規模なひばりが丘住宅団地が形成されている。北東部に東京大学大学院の広大な農場や演習林が緑地をつくり、それに接して西東京いこいの森公園がある。南は石神井(しゃくじい)川の侵食谷が曲がっている。
[沢田 清]
『『田無市史』全4巻(1995・田無市)』
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…その上から〈衣〉を着て,合わせた上前(うわまえ)の右腰部分を,下袴に締めてある小帯に,上から押し込むようにして挟み込む着装法である。1920年代ころまでは士族の女性は家居の場合でも威儀を正した服装で,夏季も〈衣〉の上に帯を締め,その上から田無(たなし)という絽地花織(花倉織)の夏季用打掛を着ていたという。明治時代の沖縄の絵画や大正時代から現代にいたる沖縄の写真資料にしばしば〈衣〉の前の打合せが左前(左衽(さじん))になっているのがあるが,中国の服装文化と日本の服装文化とのなんらかの影響が,現代にこういう現象となって残されているのだと思われる。…
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