デジタル大辞泉
「西東京市」の意味・読み・例文・類語
にしとうきょう‐し〔にしトウキヤウ‐〕【西東京市】
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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西東京市
にしとうきようし
面積:一五・八五平方キロ
都心から北西に二〇―二五キロ、武蔵野台地のほぼ中央に位置し、北は埼玉県新座市、南は武蔵野市・小金井市、東は練馬区、西は小平市・東久留米市に接する。市域北部を東西に西武池袋線が通り、保谷とひばりヶ丘の二駅がある。一方南部には西武新宿線が通り、東伏見・西武柳沢・田無の三駅がある。ほぼ中央を東西に新青梅街道が貫き、その南側を青梅街道、市域の南縁を五日市街道がそれぞれ同じく東西に通る。街道としてはほかにも所沢街道・富士街道などが通り、古くから江戸と多摩・秩父地域を東西南北に結ぶ交通の要地であったことを示す。地勢はおおよそ平坦で、西から東になだらかに傾斜し、標高は四六―六七メートル。北を市域の谷戸の湧水を源流とする白子川、中央を白子川の支流である新川、南を石神井川が流れる。地質は関東ローム層で厚さ一〇センチ以上の所が多い。平成一三年(二〇〇一)一月二一日に保谷市と田無市が合併してできた東京で最も新しい市である。
〔原始―中世〕
考古遺跡は少なく、石神井川流域にわずかにみられる。東伏見二丁目の早大東伏見グラウンド遺跡は旧石器時代と縄文時代早期―中期の遺跡で、東伏見三丁目・同六丁目の下野谷遺跡は縄文中期の集落研究に貴重な資料を提供した。ほかに旧石器時代および縄文草創期の遺構・遺物が検出された田無南町遺跡などがある。律令制下の市域は多摩・新座両郡に所属していたと推定されるが、「和名抄」から知られる両郡の郷のどれに属していたか不詳。中世には市域を鎌倉街道が通っていた。中世における田無の中心は北部の谷戸地区で、尉殿権現(現田無神社)や西光寺(現総持寺)などが創建され、旧鎌倉街道沿いからは延慶年間(一三〇八―一一)の板碑などが出土した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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西東京〔市〕
にしとうきょう
東京都中部,武蔵野台地に位置する市。北は埼玉県に接する。北部に白子川,中央部に新川 (白子川の支流) ,南部に石神井川が流れ,西から東になだらかに傾斜したほぼ平らな地勢である。 2001年1月田無市と保谷市が合併して発足。田無の地名は水田がなかったことに由来するといわれる。慶長 11 (1606) 年江戸城大修築のため開かれた青梅街道の宿場町として発展。昭和初期には東京大学農学部実習農場,演習林が設けられ,第2次世界大戦中には航空機製造工場が誘致された。金属,時計,機械などの工場がある。北部を西武鉄道池袋線,南部を同新宿線が通り,住宅・都市整備公団 (現都市基盤整備公団) のひばりが丘団地や都営住宅団地ができ住宅都市化が進んでいる。面積 15.75km2。人口 20万7388(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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