起源については二、三の伝えがあるが、「西蒲原郡誌」には、水害の多い月潟村(現在は新潟市)で、応永年中(一三九四‐一四二八)に角兵衛という農民が、子供に獅子舞を教えて勧進したとある。「随筆・三養雑記‐三」「随筆・嬉遊笑覧‐五下」等の記す、氷川神社の獅子頭に名を彫られたという角兵衛は、いつ頃の人物か不明。出身地による「越後獅子」の呼称は、京阪を中心に行なわれたようである。
越後獅子の江戸における呼び名。蒲原(かんばら)獅子ともいう。新潟県西蒲原郡月潟村(現,新潟市)を本拠地とした子どもたちによる門付の獅子舞曲芸であったが,今日では民俗芸能として伝承され,6月24,25日の月潟祭(角兵衛地蔵祭)に白山神社の境内で演じられている。由来については生計のためとか親の仇を捜すためとか諸説があって明らかでないが,少なくとも宝暦期(1751-64)には始まっていて,天明から文政年間(1781-1830)に盛行期を迎え,地唄や長唄物の舞踊にとり込まれたりもした。しかし明治末年ごろには滅び,現行のものは1936年の復活後のものである。全盛時代には276もの演目があったというが,今日演じうるのは9種目である。扮装は昔も今も変わらず,小さな赤い獅子頭,木綿縞筒袖,卍紋の胸当,裁付袴(たつつけばかま),小足駄,腰鼓で,口上に乗って倒立や曲体の技を連続的に演ずる。1人で演じる一人芸(金の鯱(しやちほこ),獅子の乱菊など)と,2人以上で行う組芸(舞こみ,水車,人馬など)がある。なお,角兵衛獅子の名の由来については,〈蒲原獅子〉のなまり,創始者の名角兵衛から転訛したなど諸説がある。
執筆者:西角井 正大
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
少年少女たちの演ずる軽業(かるわざ)の獅子舞。昭和に入ってからは新潟県西蒲原(にしかんばら)郡月潟(つきがた)村(現、新潟市南区)の郷土芸能となったが、もとは門付(かどづけ)の巷間(こうかん)芸能であった。親方が数名の獅子の児(こ)を連れて一年中諸国を巡って歩き、6月25日の月潟村の地蔵祭には帰村して奉納した。親方だけが月潟または近隣に籍を置き、獅子の児は他所(よそ)の孤児などもらい子だった。扮装(ふんそう)は、小さな赤い獅子頭(がしら)を頭に頂き、筒袖(つつそで)の着物に襷(たすき)を掛け、卍(まんじ)紋の入った胸当てをし、裁着袴(たっつけばかま)をはき、白い手甲をつけ、日和下駄(ひよりげた)を履いて、腹に腰鼓をつける。芸には、金の鯱(しゃちほこ)、蟹(かに)の横這(よこば)い、獅子の乱菊、淀(よど)の川瀬の水車などの一人芸と、二人一組芸の肩櫓(かたやぐら)、大井川の川越(かわごし)、唐子(からこ)人形の御馬乗りなどがある。由来譚(たん)は水戸浪人角兵衛の伝授など数種あるが、その存在が宝暦(ほうれき)期(1751~64)まではさかのぼれる。越後(えちご)獅子、蒲原獅子、月潟の獅子ともいう。江戸風俗を飾り、地歌、富本節(とみもとぶし)、長唄(ながうた)舞踊劇、下座(げざ)音楽などの題材となった。
[西角井正大]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
越後獅子・蒲原(かんばら)獅子とも。新潟県西蒲原郡月潟村(現,新潟市南区)を本拠地とした子供による獅子舞曲芸。各地をまわって門付(かどづけ)し,その芸をみせた。江戸では多く角兵衛獅子の名でよばれ,宝暦期頃から盛行し,幕末期まで親しまれたが,大道芸としては明治末頃に衰微した。現在,新潟市南区月潟地区では民俗芸能として演じられている。この芸能風俗は長唄物の舞踊などにもとりいれられた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…盆の供養,夏祈禱,雨乞いなどに踊られることが多く,三匹獅子舞では獅子頭のほか,地理的地域的条件により竜,猪,カモシカ(鹿),熊形などの頭がある。 新潟県の角兵衛獅子は二人立ちと一人立ちが習合したものと思われる。【西角井 正大】。…
…自然堤防上では古くからナシの栽培が盛んで,大別当(おおべつとう)にある樹齢170年と伝えられる類産ナシは,ナシ栽培が導入された当時の古品種で,天然記念物に指定されている。越後獅子の名で知られ,農閑期の旅稼ぎでもあった角兵衛獅子発祥の地で,6月23~25日の月潟地蔵堂の祭礼には地元の保存会によって角兵衛獅子が奉納される。【佐藤 裕治】。…
※「角兵衛獅子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新