デジタル大辞泉
「角屋七郎兵衛」の意味・読み・例文・類語
かどや‐しちろうべえ〔‐シチラウベヱ〕【角屋七郎兵衛】
[1610~1672]江戸前期の商人。伊勢松坂の人。祖父の代からの廻船問屋で、安南との交易に従事。鎖国後も現地にとどまった。
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かどや‐しちろうべえ‥シチラウベヱ【角屋七郎兵衛】
- 江戸前期の貿易商人。安南に渡り、成功を収める。王族の阮(グエン)氏の娘を妻とし、安南に永住。慶長一五~寛文一二年(一六一〇‐七二)
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角屋七郎兵衛
没年:寛文12.1.19(1672.2.17)
生年:慶長15.3.17(1610.5.10)
近世初頭の貿易家。父角屋七郎次郎(忠栄)と母鎌田氏の娘の次男。本姓松本氏,名を栄吉。徳川家康から信頼を得た伊勢の角屋七郎次郎秀持の孫。安南国交趾(インドシナ半島)との貿易に従事していたが,寛永8(1631)年同国中部のフェイフォに移住,日本町の指導者として,朱印船貿易に協力して活躍した。妻は安南国王の一族阮氏の娘。同12年日本船および日本人の海外渡航,および海外の日本人の帰国が厳禁されたため,フェイフォに残留し,安南船で日本貿易を行ったようである。七郎兵衛は長崎,堺,松坂に兄弟や親類がおり,彼らと連絡をとっていた。七郎兵衛は鎖国下に数通の書状をこれらの親類に送っていて,その実物を残しており,消息や生活必需物資を送らせたり,伊勢神宮をはじめ神社,仏閣への応分の奉納などを行っている。なおフェイフォに延宝年間(1673~81)29人の日本人が居住していたという。フェイフォに松本寺を建立した。死後現地松本寺および松坂来迎寺に葬る。<参考文献>『南紀徳川史』第7冊,『角屋関係文書集』(伊勢市神宮徴古館蔵),黒板勝美「南洋における日本関係史料調査報告」(『黒板勝美先生遺文』),川島元次郎『朱印船貿易史』,辻善之助『増訂海外交通史話』,岩生成一『南洋日本町の研究』,『安南記』(田中久夫校訂『国民精神文化』8巻7号)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
角屋七郎兵衛(かどやしちろべえ)
かどやしちろべえ
(1610―1672)
江戸前期の貿易商人。伊勢(いせ)(三重県)松坂の廻船(かいせん)問屋に生まれる。1631年(寛永8)安南(ベトナム)へ渡航し、国王の一族阮氏(げんし)の娘と結婚。鎖国後も現地にとどまり、交趾(こうち)日本町の頭領となった。寛文(かんぶん)年間(1661~73)の初め、海外居住邦人の日本への通信が許されて、消息が明らかになり、以後彼は年々中国船に資金を融通し、商品を託送するなど故国との取引を継続した。彼が、松坂の本家角屋七郎次郎にあてた注文状などによりその活躍状況が明らかにされ、また日本町の状況をもうかがい知ることができる。なお交趾ツーラン近郊の蝋石(ろうせき)山磨崖(まがい)の碑には、40年仏像重修寄進者の一人として彼の名が刻まれている。
[沼田 哲]
『川島元次郎著『朱印船貿易史』(1921・内外出版社)』▽『岩生成一著『南洋日本町の研究』増訂版(1966・岩波書店)』
角屋七郎兵衛(かどやしちろうべえ)
かどやしちろうべえ
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角屋七郎兵衛 かどや-しちろべえ
1610-1672 江戸時代前期の商人。
慶長15年3月17日生まれ。伊勢(いせ)(三重県)松坂の廻船問屋角屋七郎次郎の次男。寛永8年(1631)交趾(コーチ)(ベトナム北部)に渡航し,12年の鎖国令により現地にとどまる。寛文5年以後の角屋への手紙によれば,日本との貿易で産をなし,安南(ベトナム)国王の一族の娘と結婚したという。寛文12年1月9日現地で死去。63歳。名は栄吉。
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角屋七郎兵衛
かどやしちろべえ
[生]慶長15(1610).3. 伊勢,松坂
[没]寛文12(1672).1.9. 安南
江戸時代初期の貿易商。寛永8 (1631) 年安南 (→アンナン ) に渡航し貿易に従事。同 12年鎖国令後も同地にとどまり,砂糖,織物,銀貨交易にたずさわり産をなした。安南国王の外戚にあたる阮氏一族の娘を妻とし,在留日本人の指導者として活躍。
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角屋七郎兵衛
かどやしちろべえ
1610〜72
江戸前期の海外貿易家
伊勢(三重県)松坂の廻船問屋七郎次郎秀持の孫。字 (あざな) は栄吉。1631年アンナンに渡航し,鎖国政策の強化にもかかわらずアンナンに滞留し,巨商として活躍した。日本町の頭領をつとめ,30余年異郷にあって客死した。
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角屋七郎兵衛 (かどやしちろうべえ)
生年月日:1610年3月17日
江戸時代前期の貿易家
1672年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の角屋七郎兵衛の言及
【南洋日本人町】より
…しかし,日本人の大部分は商業に従事し,とくに日本から来航する朱印船のために,生糸,鹿皮,鮫皮,蘇芳木(すおうぎ)(赤色系の染料)などの商品を買い集めた。日本内地の朱印船貿易商の中には,自分の親戚や使用人を現地に常駐させる者もあり,フェイフォの平野屋六兵衛,角屋七郎兵衛,アユタヤの糸屋太右衛門などはその例であった。 これほど繁栄した日本人町も,1633年(寛永10)以後の一連の鎖国令による海外渡航禁令の強化に伴って,朱印船が来航しなくなり,また内地からの新しい人材の供給を絶たれることになった。…
※「角屋七郎兵衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」