デジタル大辞泉 「許衡」の意味・読み・例文・類語 きょ‐こう〔‐カウ〕【許衡】 [1209~1281]中国、元の学者。新鄭(河南省)の人。字あざなは仲平。号は魯斎ろさい。元代を代表する朱子学者。著「魯斎心法」「許文正公遺書」。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例 Sponserd by
精選版 日本国語大辞典 「許衡」の意味・読み・例文・類語 きょ‐こう‥カウ【許衡】 中国、元代の学者。字(あざな)は仲平。号は魯斎。諡(おくりな)は文正。世祖に仕え、官は国子祭酒、商議中書省事となる。北方における朱子学の普及に尽した。また、授時暦の制定に参加し、蒙古の子弟の教育にも当たった。著「許文正公遺書」一二巻。(一二〇九‐八一) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
日本大百科全書(ニッポニカ) 「許衡」の意味・わかりやすい解説 許衡きょこう(1209―1281) 中国、元代の朱子学者。字(あざな)は仲平、号は魯斎(ろさい)。河南省沁陽(しんよう)県の人。初め竇黙(とうもく)(1196―1280)に仏老(ぶつろう)百家を学び、姚枢(ようすう)(1201―1278)に朱子学を学んだ。この二人の名臣の推挙で南宋(なんそう)滅亡以前に世祖フビライに仕えた。豊かな学殖と人格的魅力で学術界に重きをなし、元朝治下に朱子学を広めた功績は大きい。呉澄(ごちょう)とともに元の二大儒と称される。理論的に新味はないが、実践に努めた消息は『魯斎全書』『魯斎心法』にみえ、日本でもよく読まれた。[田公平 2016年2月17日][参照項目] | 呉澄 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例 Sponserd by
改訂新版 世界大百科事典 「許衡」の意味・わかりやすい解説 許衡 (きょこう)Xǔ Héng生没年:1209-81 中国,元代の朱子学者。字は仲平,号は魯斎。河南泌陽(ひつよう)の人。農民の出身であったが,学問に精進し,元朝初期の名臣竇黙(とうもく)に仏老百家を学び,次いで桃枢(とうすう)に朱子学を学んだ。この2人の推挙で南宋滅亡以前に世祖フビライに近侍し,のち,学術界に重きをなした。元朝治下に朱子学を広めた功績は大きく,呉澄とともに元の二大儒と称される。その実践に努めた消息は,その著《魯斎全書》《魯斎心法》にみえる。この2著は日本において江戸期にはよく読まれた。執筆者:吉田 公平 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「許衡」の意味・わかりやすい解説 許衡きょこうXu Heng [生]嘉定2(1209)[没]至元18(1281)中国,元の代表的学者。字は仲平。号は魯斎。河南省の農民の出。程頤 (ていい) ,朱子に傾倒し,姚枢 (ようすう) らと諸学を研究。世祖即位前に京兆提学となり,即位後,国子祭酒に任じられた。中国伝統の方法 (漢法) による統治をすすめて受入れられ,官制,朝議の諸事も定めた。至元8 (1271) 年来,集賢大学士兼国子祭酒としてモンゴル人子弟の教育にあたり,同 13年より授時暦作成に参加した。華北の朱子学盛行は彼の功績。特別な創見をもったわけではないが,儒学の沈滞した元代では,目立った存在であった。著書『許文正公遺書』 (12巻) ほか。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by
世界大百科事典(旧版)内の許衡の言及 【授時暦】より …中国,元代の郭守敬,王恂,許衡らによって制定された暦法。太陰太陽暦。… ※「許衡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。 出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」 Sponserd by