諏訪町(読み)すわまち

日本歴史地名大系 「諏訪町」の解説

諏訪町
すわまち

[現在地名]山形市諏訪町一―二丁目・七日町なぬかまち五丁目・小姓町こしようまち東原町ひがしはらまち二―三丁目

材木ざいもく町・小荷駄こにだ町の北に位置し、北は七日町、東は地蔵じぞう町。文明六年(一四七四)最上義春が霊夢によって当地に諏訪神社を創建したと伝え、これ以降集落が形成されたと考えられる。最上氏時代城下絵図に「今スハ町通」とみえ、下士屋敷地が地割されている。市日町と職人町の外側にあり、小姓町・地蔵町とともに城下の東部を防御する家臣団が集住していた。

元禄一〇年(一六九七)の屋敷家数等覚(山形故実録)によれば、ゆみ(小荷駄町)境より心縁しんえん寺境までの町の長さ七町八間・幅三間、土橋一四。


諏訪町
すわまち

[現在地名]長崎市諏訪町

磨屋とぎや町の北東、中島なかしま川左岸にある長崎そと町の一ヵ町で、陸手に属した。諏方とも記された。町並はほぼ南北に形成され、南は川を隔てててら町に通じる(享和二年長崎絵図)町名は長崎の氏神諏訪神社が当町に勧請されていたことに由来する。諏訪神社の跡地寺町長照ちようしよう寺山門付近という。寛永長崎港図に「諏訪ノ町通り」とあり、諏訪大明神が描かれる。寛永一六年(一六三九)をはじめ諏訪町衆小川おがわ町衆・今紺屋いまこうや町衆らとともに伊勢参宮に赴いている(「御参宮人抜書」橋村家文書)。正保四年(一六四七)の外町箇所数帳(柏原家文書)では箇所数三六。


諏訪町
すわまち

[現在地名]八尾町諏訪町

上新かみしん町の南東にある。天保一四年(一八四三)の町絵図(県立図書館蔵)では三―四区割の家並が描かれ、北東方に諏訪大明神、その南脇に用心水があり、また町並中ほどにも水溜を設け、上新町との連絡小路は火除けとなっている。町並東側に離れて臼屋がみえる。延享二年(一七四五)諏訪社前に町立てされた。慶応四年(一八六八)の本家家数一八二・人数八〇〇、借家家数五二・人数一九三、同居人家数三一・人数八五(郡方人別書上帳)。当町町人は元来諏訪社氏子であるものの、明和七年(一七七〇)以来余興として上皇太子かみこうたいし(現八幡社)祭礼に獅子舞を出してきており、明治二年(一八六九)には曳山を出すこととなった。


諏訪町
すわまち

[現在地名]前橋市城東町じようとうまち一―三丁目

広瀬ひろせ川左岸にあり、対岸の立川たてかわ町から北東に道が続く。周囲は一毛いちけ村。貞享元年(一六八四)の「前橋風土記」に町名が記される。文政一二年(一八二九)の前橋藩諸職人元帳(星野文書)によれば、職人が多く住み、鍛冶六・畳刺三・大工二・桶師三・板割一・屋根萱葺二・長板割一がいた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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