日本歴史地名大系 「諫早町・諫早市中」の解説 諫早町・諫早市中いさはやまち・いさはやしちゆう 長崎県:諫早市諫早町・諫早市中[現在地名]諫早市高城町(たかしろちよう)・栄町(さかえまち)・本町(ほんまち)・東本町(ひがしほんまち)・八坂町(やさかまち)・八天町(はつてんちよう)・上町(かみまち)・旭町(あさひまち)など本明(ほんみよう)川の河口部にある町場。江戸時代、肥前佐賀藩親類同格の諫早家の城下ともいうべき輪内(わうち)のうち町人地を称する。ただし中世末より上町がみえるなど、西郷氏または諫早家の領内経営の中心として早くより人々の集住地、物資の集散地であったと考えられる。商人地・津湊があり、諫早街道(長崎路)の宿駅でもあった。市中(「諫早日記」文化八年一一月条)とも、諫早町(寛政元酉巡見録)などともみえ、町場を形成していた。輪内が地籍上は本明村(のち下本明村)に属することから諫早市中も本明村域のうちで、「諫早日記」嘉永七年(一八五四)条に「本明村之内 諫早町之分」とある。また「船越村之内 諫早町之分」とみえ、船越(ふなこし)村域にも及んでいたことが知られる。正保国絵図に「諫早町」として高八四〇石余とあり、高付されている。正保二年(一六四五)の高来郡内高力氏領分図では諫早とあり、鍋島領と記される。一方、諫早村とする把握もあり、寛文四年(一六六四)の鍋島光茂領知目録(寛文朱印留)に諫早村とみえる。元禄国絵図では諫早町として高六七三石余。天明七年(一七八七)の佐賀領村々目録では諫早村として高六七三石余。天保郷帳では諫早町とし、旧高旧領取調帳では諫早市中として高六七石余と記される。町方の諫早領内における公的な石高がこの六七石余であり、元禄国絵図などの石高は諫早市中を含むより広域の諫早(諫早村または諫早町)のものであることが想定できるが、村方の船越村・本明村との関連など詳細は明らかではない。天保三年(一八三二)の諫早領田畑石高帳に諫早町とみえるが、石高の記載はない。〔町方〕宝暦二年(一七五二)の佐賀領郷村帳に諫早上町・同下町・田(た)町・田代(たしろ)町・岡(おか)町・光江(みつえ)町が記される。寛政元年(一七八九)当時市中は五ヵ町で、諫早家中を除いた戸数は四〇〇余で、人数一千八〇〇、酒屋・糀屋ともに一〇軒余があった(寛政元酉巡見録)。天保一〇年以前の諫早旧城下図(「諫早市史」所載)では本明川右岸側に古(ふる)町・田町・上町・浦(うら)町・魚(うお)町・下(しも)町・田代町・中川良(なかがわら)・光江・新中川良、同じく左岸に五反屋敷(ごたんやしき)・岡町などが記される。幕末には上町・下町・田町・田代町・岡町に加えて古町の六ヵ町に町別当が置かれ、横(よこ)町・片(かた)町・浦町・新(しん)町・魚(うお)ノ棚(たな)町・古中川良・新中川良などは下町別当の管轄であったとされるが、安政二年(一八五五)佐賀領郷村帳(佐賀県立図書館蔵)では田代町・光江町・諫早上町・諫早下町の各町とこれらに属する東光江・西光江・新町・奥(おく)町・魚町・裏町・横町・古中川原・新中川原がみえる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by