現千代田区
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江戸神田にあった真言宗豊山派の寺。元禄山と号したが今はない。1688年(元禄1)湯島の知足院を神田橋外の武家屋敷の地に移し,寺観も一新して護持院と改めた。開山は知足院の隆光で,彼は将軍綱吉に認められ権僧正に任ぜられた。91年には朱印1500石の寄進を受け,院家に列し,関東真言宗新義派の総録とされた。翌92年隆光は大僧正に昇進し,96年に元禄山護持院の号を賜った。将軍とその生母桂昌院の参詣は前後数十度に及び,その庇護のもとで寺門は隆盛を極めた。しかし1717年(享保2)の大火で類焼すると,幕府の命により護国寺の域内に移された。あとに残った寺地は護持院ヶ原と呼ばれ,すこぶる佳景の地であった。のち護国寺を改め護持院と称したこともあるが,明治の初め両寺合併し護国寺に統合されると,護持院は廃寺となった。隆光は綱吉の信任が厚く,〈生類憐みの令〉は彼の進言によるものといわれるが,真言密教の再興者としても有名である。
執筆者:長谷川 匡俊
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東京都千代田区神田錦(にしき)町にあった新義真言宗の寺。1688年(元禄1)、徳川5代将軍綱吉(つなよし)の帰依(きえ)を受けた隆光(りゅうこう)(1649―1724)が湯島の知足院(ちそくいん)を移したのに始まる。1695年幕府の祈願所となって護持院と改称した。隆光は真言宗新義一派の僧録司(そうろくす)となり、命を智山(ちさん)派と豊山(ぶざん)派に伝えたため、以後、護持院は智豊両山の上位にあってその威を誇ったが、綱吉の死後は隆光も去り、しだいに衰微した。1717年(享保2)焼失すると、幕府はこれを音羽(おとわ)(文京区大塚)の護国寺に合併し、本坊を護持院と称したが、明治以後その寺名も廃された。
[勝又俊教]
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…亮賢は上野国八幡別当大聖護国寺の住持で,綱吉の安産を祈って験があったといわれる。同じころ,将軍母子の帰依を受けて隆盛を極めていた護持院が,1717年(享保2)の大火で灰燼(かいじん)に帰すと,幕府は再興を許さず,その地を合併して当寺を護持院と改め,境内の観音堂を護国寺と改称させてしまった。しかし明治の初め,両寺は合併して護持院は廃寺となり,当寺に統合された。…
…88年(元禄1)には神田橋外に5万坪の地を賜り,知足院をここに移した。91年僧正となり,95年には寺領500石を加えて1500石となり,寺名を護持院と改め,新義真言の僧録を命ぜられ,隆光は大僧正に昇った。将軍綱吉と生母桂昌院に取り入り,〈生類憐みの令〉も実子を強く望む綱吉に彼が勧めたものと伝えられるが,同令が年とともに極端にはしったことに深く関与していると考えられている。…
※「護持院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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