江戸初期の真言(しんごん)宗の僧。字(あざな)は栄春(えいしゅん)、俗姓は川辺氏。大和(やまと)(奈良県)の人。12歳のとき唐招提寺(とうしょうだいじ)の朝意(ちょうい)に従って受戒、ついで豊山(ぶざん)(長谷寺(はせでら))の亮汰(りょうた)(1622―1680)に師事。18歳のとき京都で詩書、春秋、老荘を学び、高野山(こうやさん)、興福寺、法隆寺、醍醐(だいご)寺で東密(とうみつ)、唯識(ゆいしき)、華厳(けごん)、三論(さんろん)、倶舎(くしゃ)を学ぶ。将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)の寵遇(ちょうぐう)を受けて筑波(つくば)山知足院主(ちそくいんしゅ)となり、のちにこれを江戸神田橋外に建立し護持院(ごじいん)と称する。将軍とその母桂昌院(けいしょういん)の外護(げご)により乙訓寺(おとくにでら)、室生寺(むろうじ)を中興して新義派に転ぜしめ、また筑波神社、熱田(あつた)神宮などの社寺多数を復興した。一方、江戸城に日々登城して将軍の左右に侍して勢力を振るい、世に護持院大僧正(だいそうじょう)と称された。関東の新義真言宗はこの隆光のころをもって最盛期とする。
[吉田宏晢 2017年10月19日]
(正木晃)
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江戸中期の新義真言宗の僧。大和添下郡二条村に生まれ,唐招提寺朝意のもとで仏門に入り,1660年(万治3)長谷寺浄泉亮汰に学ぶ。ついで奈良諸寺で唯識,華厳,三論,俱舎を受講し,86年(貞享3)江戸湯島の知足院住職となり,江戸城中鎮護の祈禱を務めた。将軍徳川綱吉に認められ,同年権僧正に抜擢(ばつてき)。88年(元禄1)には神田橋外に5万坪の地を賜り,知足院をここに移した。91年僧正となり,95年には寺領500石を加えて1500石となり,寺名を護持院と改め,新義真言の僧録を命ぜられ,隆光は大僧正に昇った。将軍綱吉と生母桂昌院に取り入り,〈生類憐みの令〉も実子を強く望む綱吉に彼が勧めたものと伝えられるが,同令が年とともに極端にはしったことに深く関与していると考えられている。1707年(宝永4)駿河台成満院に退き,09年綱吉死後大和超昇寺に隠居した。
執筆者:辻達也
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1649.2.8~1724.6.7
江戸中期の真言宗新義派の僧。5代将軍徳川綱吉の護持僧。出自は大和国の旧家河辺氏。1658年(万治元)仏門に入る。唐招提寺・長谷寺で修学したのち,奈良・醍醐で密教を修行。86年(貞享3)将軍家祈祷寺の筑波山知足院の住職に命じられたのを機に,急速に綱吉の帰依を得た。95年(元禄8)真言宗新義派では初の大僧正となる。著書「理趣経解嘲」「筑波山縁起」。日記「隆光僧正日記」。
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…1688年(元禄1)湯島の知足院を神田橋外の武家屋敷の地に移し,寺観も一新して護持院と改めた。開山は知足院の隆光で,彼は将軍綱吉に認められ権僧正に任ぜられた。91年には朱印1500石の寄進を受け,院家に列し,関東真言宗新義派の総録とされた。…
※「隆光」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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