豊原寺跡(読み)とよはらじあと

日本歴史地名大系 「豊原寺跡」の解説

豊原寺跡
とよはらじあと

[現在地名]丸岡町豊原

丸岡まるおか城下の東方の谷間にあった寺院。白山信仰と結んだ大寺で、平泉へいせん(現福井県勝山市)と同様多くの僧兵山伏を抱えた。盛時には豊原三千坊と称され、東の竹田たけだ谷までも寺塔が並んだと伝える。

〈近江・若狭越前寺院神社大事典〉

〔泰澄の開創〕

室町時代中頃の成立と推定される白山豊原寺縁起(豊原文書)によれば、大宝二年(七〇二)泰澄の開創といい、淳和天皇の頃、昌滝によって再興されたというから一時荒廃したかと思われる。泰澄の開創については権現ごんげん山麓にある閼伽井の底から立上る紫雲の中に天女を感得し、この地に白山を勧請、紫雲石をもって薬師如来を刻み、講堂に祀ったことに始まるという伝承もある。その後、鎮守府将軍藤原利仁が延喜八年(九〇八)東国の賊徒平定の際、戦勝を当寺に祈願、その由縁によって天治元年(一一二四)利仁の末裔藤原以成が五〇〇余宇の僧坊と数ヵ所の寺田を寄進したという。また治承五年(一一八一)木曾義仲の平家追討に応じたことによって当国において二ヵ所の寺領を寄進され、寛喜元年(一二二九)天台宗延暦寺末となったという。河口荘綿両目等事(大乗院文書)に収められた弘安三年(一二八〇)の検注記録に「豊原十四丁二反小」と除地が記されている。

〔中世〕

さらに前掲縁起によれば、南北朝争乱の際は北朝足利方に与同して活躍、このため西長田にしながた(現福井県春江町)地頭職小森こもり(現同町)領家職、粟田島あわたじま地頭職を得たという。しかし「太平記」巻一八(越前府軍并金崎後攻事)に、延元元年(一三三六)杣山そまやま(現同県南条町)の南朝方脇屋義治のもとに「平泉寺・豊原ノ衆徒、(中略)引出物ヲ捧ゲ酒肴ヲ舁セテ、日々ニ群集シ」とあり、また巻二二(畑六郎左衛門事)には暦応四年(一三四一)一〇月、伊知地いじち(現勝山市)の南朝方を、斯波高経が「豊原・平泉寺ノ衆徒、宮方ト引合テ旌ヲ挙タリト心得テ」攻撃しており、時の状勢により南朝方と呼応したこともあったようである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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