愛知県南東部、豊川(とよがわ)下流の平野で、三河湾に臨む。東三河平野ともよばれる。面積772平方キロメートルで、豊橋、蒲郡(がまごおり)、豊川(とよかわ)、新城(しんしろ)、田原(たはら)の5市にまたがる。県内では尾張(おわり)平野、岡崎平野と並ぶ経済、文化の盛んな重要平野で、先進的農業地域といわれる。豊川が平野の中央を貫流し、沿岸は河岸段丘が形成され、段丘上に高師(たかし)原、天伯(てんぱく)原がある。下流は豊川氾濫(はんらん)原で沖積デルタ、三河湾(渥美湾)に臨む河口付近は遠浅で、埋立地が造成されている。中心都市豊橋市は、旧吉田藩の城下町、旧東海道五十三次吉田宿、三河湾・豊川の舟運の拠点であったが、その後造成の三河港、臨海工業地帯によって農工共存の都市へと変わりつつある。
[伊藤郷平]
濃尾平野に次ぐ愛知県第2の平野。東三河平野ともいう。新城(しんしろ)市付近から下流に向かって展開する豊川の沖積平野と,その東西両側に発達する段丘状の洪積台地からなる。洪積台地は,豊川左岸から三河湾岸,遠州灘にいたる豊橋台地と,豊川右岸から宝飯(ほい)山地の山麓に開けた豊川台地に分かれる。豊橋台地は,天伯原(てんぱくはら)頂部で標高50~80mの最高位面,天伯原北斜面で標高23~45mの高位面,高師(たかし)原がのる標高12~45mの中位面,豊橋市街地東部がのる標高1.5~15mの低位面,さらに豊橋市賀茂町東部などに断片的に分布する標高1~1.5mの最低位面とに区分される。豊川台地にも宝飯山地の山麓に断続する標高45~95mの高位面,小坂井台地とも呼ばれる標高2~35mの中位面,音羽川低地に接して分布する標高1m前後の低位面の段丘が発達している。豊川沖積平野は,新城市付近から下流に向かって展開し,一宮町地内までは扇状地状,それ以下は三角州平野となり,自然堤防が豊川の河口付近まで発達している。この豊川沖積平野には,明治以降,洪水防止と水稲作の増収を図るために,神野(じんの)新田の干拓,牟呂(むろ)用水の開削,霞堤の改修,豊川放水路の建設などの事業が行われてきた。一方,乏水地域であった洪積台地は,1968年に豊川用水が通水したことにより十分な畑地灌漑が行われるようになり,全国屈指の園芸農業地域に変貌した。
豊橋平野における近年の工業化はめざましく,特に1960年代以降,工業整備特別地域として三河港の整備や臨海工業用地の造成がすすみ,68年東名高速道路豊川インターチェンジが設置されてからは大型工場の進出が相次いだ。また,豊橋市,豊川市をはじめとする平野部では多くの住宅団地が造成され,人口は急増している。
執筆者:溝口 常俊
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…尾張国三河国
[東西文化の結節点]
伊勢湾と敦賀湾を結ぶ本州地峡帯の太平洋岸に位置し,古くから東・西日本の両文化圏の交錯地としての性格を強くもち続けてきた。律令制施行以前は濃尾平野の尾張国,岡崎平野の三河国,豊橋平野の穂国の三つに分かれていたが,施行後は稲沢市松下,下津(おりづ)付近に国府を置く尾張国,三河と穂を合わせて豊川市白鳥町に国府を置く三河国が定められ,今日までの地域形成の基盤ができ上がった。中世には,木曾川をはさんでこの地はしばしば東西勢力の接触する場となり,源平の墨俣合戦,承久の乱の木曾川の戦などがおこった。…
※「豊橋平野」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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