日本大百科全書(ニッポニカ) 「財田川事件」の意味・わかりやすい解説
財田川事件
さいたがわじけん
1950年(昭和25)2月28日、香川県三豊(みとよ)郡財田村(現、三豊市財田町)で発生した強盗殺人事件。当時19歳であった谷口繁義(たにぐちしげよし)が別件逮捕され、長期間の勾留(こうりゅう)の末に自白し、強盗殺人罪で死刑が確定した。しかし、その後再審が認められ、戦後2件目の死刑囚再審無罪事件となった。
[江川紹子 2017年3月21日]
事件発生~死刑確定
被害者はひとり暮らしの闇米(やみごめ)ブローカーの男性(62歳)。自宅の4畳寝室で、30数か所を刃物でめった刺しにされているのを、同日夕刻、訪ねてきた知人が発見。室内に物色の跡はなかったが、別居中の妻の供述などから、警察は、被害者が日ごろ蓄えていた現金2万円くらいを犯人が強奪したと推測。強盗殺人事件として捜査本部を設置した。
警察は、闇米取引きの関係者のほか、「前科者性行不良者」などを別件で逮捕しては本件とのかかわりを取り調べた。前年に不良仲間の男とともに強盗未遂罪を引き起こし、執行猶予付の有罪判決を受けていた谷口も、「前科者性行不良者」としてリストアップされていた。
発生から1か月後、隣村の農業協同組合の事務所に泥棒が入り、気がついた宿直員を刺して全治2週間のけがをさせて逃走する事件が発生。まず不良仲間の男が逮捕され、その供述から1950年4月3日に谷口が強盗傷人容疑で逮捕されて、闇米ブローカー殺害についても追及された。先に逮捕された不良仲間の男は、闇米ブローカー殺害当日のアリバイが成立したため、谷口に捜査の矛先が集中した。
谷口は農協事件で懲役3年6月の判決を受けた直後の6月21日、拘置所から警察の派出所にある留置場に身柄を移された。そこで別件の窃盗、続いて暴行恐喝容疑で逮捕・勾留され、闇米ブローカー殺害について厳しい追及を受けた。谷口によれば、足を縛られ手錠をしたまま長時間正座させられたり、食事を減らされるなどの拷問もあった。
農協事件での逮捕から115日目、別件で勾留中に谷口は初めて闇米ブローカー殺害を自白した。その後、主任捜査官以外の取調べを受けた際に否認したが、すぐに自白に戻った。警察官や検察官による調書のほかに、谷口直筆とされる手記が5通作成された。ただし、谷口は自分が書いたものではないと述べている。
裁判では、谷口は当初から全面的に起訴事実を否認した。しかし高松地裁丸亀(まるがめ)支部は1952年2月、谷口に死刑を言い渡した。判決によると、被告人は刺身包丁を持って被害者宅に侵入し、就寝中の被害者の顔面、頭部、腰などを矢つぎばやに刺し、仰向けに倒れた被害者が着用していた胴巻の中から現金1万3000円くらいを奪取した後、心臓のあたりを刺してとどめを刺した。
有罪判決において、谷口と事件を結びつける唯一の物証は、犯行当日に谷口がはいていたとされる「国防色中古ズボン」である。これに「微量血痕(けっこん)」が付着しており、それを2人の法医学者が鑑定した結果、1人は「微量で血液型を判定するには十分ではない」としたが、東京大学教授の古畑種基(ふるはたたねもと)は「きわめて微量であるため十分な検査をすることができなかったが血液型は(被害者と同じ)O型と判定せられる」と結論づけた。
谷口は上訴したが、1956年6月に高松高裁が控訴棄却、1957年1月に最高裁が上告を棄却して、死刑判決が確定した。
[江川紹子 2017年3月21日]
再審請求
死刑囚となった谷口の身柄は、刑場のある大阪拘置所に移された。
再審請求を行ったが、1958年3月に棄却されている。法務省が死刑執行準備のため、裁判に提出されなかった捜査報告書や参考人の供述調書などの公判不提出記録の送付を検察に求めたところ、高松地検丸亀支部に保管されているはずの記録がすべて紛失しているのがわかった。これで、谷口の自白調書や確定判決と矛盾する証拠があるか否かを確認するすべはなくなった。
谷口は1964年3月、高松地裁丸亀支部宛に「国防色中古ズボン」の「微量血痕」について再鑑定を求める手紙を送り、再審請求の意思も伝えたが、なぜか手紙は裁判所内の書類棚に放置された。1969年3月、高松地裁丸亀支部長判事の矢野伊吉(やのいきち)(1911―1983)がその手紙を発見。改めて谷口の意思を確認したところ、再審の意思表示をしたため、矢野はこれを正規の再審請求と認め、裁判長として再審請求審の審理を開始した。
矢野は確定審の裁判記録を読み込むなかで、谷口が書いたとされた5通の手記の文字遣いや筆跡などから、捜査官が偽造したものではないかと疑いをもち、自白調書の不自然な変遷や客観証拠との矛盾など多数の問題点に気づいた。再審請求審では、谷口本人や家族、捜査関係者の尋問が行われた。
谷口の無実を確信した矢野は、再審開始決定を起案したが、2人の陪席裁判官の反対で、裁判所としての判断は延期された。矢野は退官して弁護士となり、谷口の弁護人となった。
この第二次再審請求は、1972年9月に高松地裁丸亀支部が再審請求を棄却。1974年12月に高松高裁が即時抗告を棄却した。
これに対し最高裁は1976年10月12日、客観的事実と自白の矛盾を指摘し、自白の信用性に疑問を投げかけたうえで、その解明がなされていない地裁、高裁の決定は「審理不尽の違法がある」として取り消し、高松地裁に差し戻した。
この決定を受けた高松地裁は1979年6月7日、「再審開始」を決定。検察側は即時抗告を行ったが、高松高裁は1981年3月14日、これを棄却。検察側は特別抗告を断念し、再審開始が確定した。
[江川紹子 2017年3月21日]
最高裁決定
本件決定の前年、最高裁第一小法廷は、1952年1月に札幌市の路上で警察官が拳銃(けんじゅう)で射殺された「白鳥事件(しらとりじけん)」の再審請求事件において、再審制度においても「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判における鉄則が適用される、とする画期的な判断を下した。
それまでは確定判決を完全に覆す証拠が求められたため、再審は事実上「開かずの門」であった。しかし、この「白鳥決定」では、再審請求で提出された新たな証拠が、刑事訴訟法が定める「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」かどうかは、それが「確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするなら有罪の事実認定に到達したであろうか」という観点から、他の全証拠と総合的に評価して判断すべきであり、「確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りる」とした。
白鳥決定は、同事件の再審については、提出された新証拠は「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」とはいえないとして、請求を退けている。しかしこの決定が、弘前(ひろさき)大学教授夫人殺害事件など、冤罪(えんざい)を訴えていた他事件に再審の道を開いた。
財田川事件再審請求の特別抗告審は、同じ最高裁第一小法廷が担当。白鳥決定で示した原則を、最高裁が初めて具体的に適用することとなった。このため、再審の基準を示した判例として、両決定をあわせて「白鳥・財田川決定」ともよぶ。
最高裁決定は、谷口の自白の信用性について検討。(1)被害者の下着には血が付着し、自白によれば谷口の手や奪った紙幣にも血がついていたというのに、被害者の腹部に巻かれていたという胴巻に血がついていないのはきわめて不自然、(2)現場には大量の血液が流出、飛散していたが、残されている犯人の血痕足跡は四つしかなく、自白にある行動に符合する血痕足跡がないのは甚だ不可解、(3)農協強盗傷人事件で連行される際、オーバーの小さなポケットに、本件での強奪金の残りである百円札80枚余りを丸めて入れ、警護の警察官7、8人の目を盗んで、手錠をかけられたまま車外に投げ捨てたという点でも自白の信用性に疑いがある、などの諸点をあげ、これらの疑問点がすべて解明されない限り、自白の信用性には疑いを抱かざるをえない、とした。
さらに、事件当時に谷口が履いていた靴が、証拠物として提出されていないことにも、疑問を投げかけた。
そのうえで、白鳥決定の原則を具体的に適用するにあたっては、確定判決が認定した犯罪事実が誤っているとの確信に至るまでの必要はなく、その事実認定に対する疑いが合理的な理由に基づくものであることを示せば足りる、とした。
そして、谷口が書いたとされる手記について、本文は谷口の筆跡ではないという鑑定結果が新証拠として出ているが、その鑑定の正確性について十分吟味しないで、再審請求を退けたことも問題視した。
[江川紹子 2017年3月21日]
再審
再審の結果、1984年3月12日、高松高裁は、自白には不自然な変遷が多い、被害者の胴巻に血痕がないのは不自然、国防色ズボンは中古品であり谷口の兄弟2人と共用していたもので、当日谷口が着用していたことや、微細な血痕が事件の時に付着したものであることを断定できない――などの理由をあげて、無罪判決を言い渡した。
谷口は釈放され、検察側は控訴せず、無罪が確定。その後、谷口に対して約7500万円の刑事補償が支払われた。谷口は、香川県琴平(ことひら)町で生活し、2005年(平成17)7月26日に脳梗塞(のうこうそく)で入院していた病院で、74歳で死亡した。
[江川紹子 2017年3月21日]