日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
弘前大学教授夫人殺害事件
ひろさきだいがくきょうじゅふじんさつがいじけん
1949年(昭和24)8月6日夜、弘前大学医学部(当時は弘前医科大学)教授の妻(30歳)が、青森県弘前市の自宅で就寝中、侵入してきた男に刃物で首を刺されて死亡した事件。近くに住む那須隆(なすたかし)(当時25歳)が殺人罪に問われ、有罪判決が確定した。刑務所を仮出所した後に真犯人が名のり出て、再審で無罪となった。現行刑事訴訟法で裁かれた殺人事件で、最初の再審無罪事件。
[江川紹子 2017年3月21日]
事件発生~有罪確定
現場からは、犯人の遺留品は発見されず、犯人のものとみられる指紋等も検出されなかった。逃走経路と思われる路上から、血痕(けっこん)がみつかった。
事件発生から16日後、弘前市警は那須の白いズック靴に人血が付着しているとして、殺人容疑で逮捕した。
取調べで那須は否認。精神鑑定を行うとして30日間の鑑定留置がなされ、さらに自宅にあった先祖伝来の古い拳銃(けんじゅう)について、銃砲等不法所持の容疑で再逮捕されるなど、身柄拘束は長引いた。殺人罪で起訴されたのは、逮捕から2か月後であった。
一審で検察側は死刑を求刑したが、青森地裁弘前支部は1951年1月12日の判決で、殺人は「その証明十分ならず」として無罪とし、拳銃所持のみを有罪として、罰金5000円を言い渡した。
仙台高裁で行われた控訴審で検察側は、求刑を無期懲役に変更した。同高裁は1952年5月31日、一審判決を取り消して懲役15年とする判決を言い渡したため、那須はふたたび拘置所に収監された。1953年2月19日、最高裁による上告棄却の判決で、那須の有罪が確定した。
[江川紹子 2017年3月21日]
血痕と法医学鑑定
自白はなく、事件と被告人を直接結びつける物的証拠もないなか、検察側のよりどころは、白ズック靴や自宅から押収された海軍用開襟白シャツに被害者と同じ血液型の血痕が検出されているとする法医学鑑定であった。ただし、鑑定は複数回行われており、結果は一致しなかった。
捜査機関は当初、靴や衣類の鑑定を、青森医学専門学校(現、弘前大学医学部)教授に嘱託した。しかし、教授が「靴には血液反応なし、シャツについては肉眼検査段階で『帯灰暗色』の斑痕(はんこん)あり」と中間報告をしたところで、なぜか委嘱は撤回された。この法医学者は、後に法廷で、シャツの斑痕は「血液だとしても古いもの」と証言している。
続いて鑑定を行ったのが、国家地方警察本部科学捜査研究所。靴については「血液の確証なし」、シャツについては「一か所に血痕B型、他の個所は血痕証明至難」との結論であった。
一方、弘前市警鑑識などによる鑑定では、靴から「多数の個所」に血痕が検出され、「人血、B型」と判定された。シャツについても、「多数の斑痕」が検出されたとしている。東北大助教授も関わり、ABO式、MN式、Q式の血液型鑑定により、シャツには被害者と同じBMQ型の血液が付着している、とされた。一方、那須自身の血液型はBMq型であった。
一審で、弁護側は新たな鑑定の実施を請求。裁判所は、当時法医学の最高権威とされていた東京大学法医学教室教授の古畑種基(ふるはたたねもと)に鑑定を委嘱した。古畑鑑定は、シャツには被害者と同じBMQE型血痕が付着していたとし、これが被害者の血液である確率は98.5%で、事実上「同一人のものであると推定される」と判定。血痕は「赤褐色」を呈しており、付着時期は、犯行現場の畳に流出・付着した被害者血液と時間差は認められないとした。
一審の無罪判決は、鑑定についての評価はしなかった。控訴審判決は、古畑鑑定などを有罪の根拠とし、靴にも細かいB型血痕が多数あったと認定した。
[江川紹子 2017年3月21日]
再審
那須は、1963年1月4日に仮釈放された。
その後も再審をあきらめず、請求に必要な「新規」「明白」な証拠を探していたが、1971年5月末、滝谷福松が宮城刑務所に服役していたときに同房となった男性を通じ、自分が犯人であると那須側に名のり出た。滝谷は、新聞記者やテレビのワイドショーの取材にも応じ、犯行を告白した。
1971年7月13日、那須は仙台高裁に再審を請求。同高裁第1刑事部は、滝谷らの証人尋問や現場検証を行ったほか、検察、弁護側双方が法医学再鑑定を提出した。しかし同高裁は1974年12月13日、滝谷証言は決定的要素に欠け、真犯人でなければ供述できない内容と断定できるほどのものではないなどとして、再審請求を棄却した。同決定は、再審を開始するには、新たに出された証拠が「有罪認定の正当性を動かして、無罪の認定に到達する高度の蓋然(がいぜん)性を有する」必要があると、厳しいハードルを課していた。那須は、即時抗告した。
1975年5月20日、最高裁は1952年に札幌市で警察官が射殺された「白鳥(しらとり)事件」に関する決定のなかで、「再審請求審においても、『疑わしいときは被告人の利益に』という刑事裁判における鉄則が適用される」とする新たな基準を示した。この「白鳥決定」では、新証拠が再審開始の要件である「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」であるかどうかは、「もし当の証拠が、確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば、はたしてその確定判決においてなされたような事実認定に到達したであろうかどうかという観点から、当の証拠と他の全証拠とを総合的に評価して判断すべき」と判示。再審開始を決めるには、「確定判決における事実認定に合理的な疑いを生ぜしめれば足りる」とした。
それから1年余り後の1976年7月13日、仙台高裁第2刑事部は本件について再審開始を決定した。決定は、その冒頭で再審を「無辜(むこ)の救済」のための制度と明確に位置づけ、証拠の明白性の判断基準として白鳥決定を引用した。本決定は、白鳥決定で示された基準を適用した最初の再審開始決定となった。
決定は、シャツの鑑定の経緯や、鑑定によって付着血痕の色調が違うことなどに、強い疑問を呈した。有罪の根拠となった証拠を検討しても、「いずれも決定的なものは何ひとつなく、寧(むし)ろ有罪を認定する方が極めて疑問であるとするものばかり」と判断。
一方、滝谷証言は「客観的事実とよく符合し、その信憑(しんぴょう)性は極めて高い」と評価し、証拠の明白性を認めた。
検察側は特別抗告せず、再審開始が確定した。
再審は、同じ仙台高裁第2刑事部が担当し、4回の公判で結審。1977年2月15日、那須を無罪とする判決が言い渡された。判決では、シャツの鑑定についての問題点をあげ、「これが押収された当時には、もともと血痕は付着していなかったのではないかという推察が可能」であり、そう考えればさまざまな疑問点が「氷解する」と述べ、捜査関係者が証拠に手を加えた可能性を示唆した。そのうえで、「一切の証拠を検討しても本件が被告人の犯行であることを認めるに足る証拠は何ひとつ存在しない」と断言。滝谷証言と他の証拠を子細に検討し、「本件の真犯人は滝谷であると断定する」と言い切った。
検察は上告を断念し、那須の無罪は確定した。
滝谷が犯行を告白したときには、公訴時効を過ぎており、本件で罪に問われることはなかった。
[江川紹子 2017年3月21日]
国家賠償訴訟
那須とその家族は1977年10月、那須を起訴した検察官、有罪とした裁判官には不法行為があったとして、国に合計約9700万円の損害賠償を求める国家賠償訴訟を提起した。
一審の青森地裁弘前支部は、1981年4月27日の判決で、靴やシャツの鑑定は裁判で証拠たり得るものではないと、検察官は知っていた、あるいは知るべきであったなどと認定し、国に対し、那須に960万円の賠償を支払うよう命じた。家族に対する損害賠償は認めず、裁判官の不法行為も認定しなかった。
これに対し、原告被告双方が控訴。仙台高裁は1986年11月28日の判決で、那須の控訴を棄却する一方、国側の控訴を認め、一審が認定した那須の勝訴部分を取り消した。同判決は、国の責任が認められるのは、裁判官や検察官が違法・不当な目的の下に裁判や捜査・起訴などをした場合などに限られると述べた。最高裁は1990年(平成2)7月20日の判決で、高裁判断を追認し、那須の全面敗訴が決まった。
だれも冤罪(えんざい)の責任を負わず、償いもなされないことについて、那須は「個人の権利は無防備なのに、国の責任は何重にもガードされている。いかに国家権力が強大であるか思い知らされた。岩を素手で叩いたようだ」と絶望感を吐露した。
[江川紹子 2017年3月21日]
その他
那須は、源平(げんぺい)の合戦で平家の扇を射抜いた戦いぶりが「平家物語」で語り継がれる源氏方の武将那須与一(なすのよいち)の子孫で、先祖伝来の家宝の多くは、裁判費用を捻出(ねんしゅつ)するために売り払われた。残され保管されていた700点余りの那須家の資料は1993年、与一生誕の地とされる栃木県大田原(おおたわら)市に寄託された。2007年(平成19)10月、同市に那須与一伝承館が開館。那須は名誉館長に任命されたが、翌2008年1月24日、弘前市内の病院で死去した。
[江川紹子 2017年3月21日]