改訂新版 世界大百科事典 「賀竜」の意味・わかりやすい解説
賀竜 (がりゅう)
Hè Lóng
生没年:1896-1969
中国人民解放軍の創始者の一人。湖南省西部の湘西トゥチャ(土家)族ミヤオ(苗)族自治州桑植県生れ。字は雲郷。父は各地を遍歴する裁縫職人で武術家,哥老会会員だった。賀竜はその父の俠気を受けつぎ,辛亥革命後軍閥政府の貪欲な徴税官を菜切り包丁で殺し,役所の武器を奪って地方的な武装集団を作って割拠したことから,武人としての生涯を開始した。1920年四川督軍の混成旅団長に編入されたが,素朴な正義感から国民革命に共鳴し,国民革命軍第20軍軍長となり,しだいに中国共産党の主張に共鳴するようになった。国共分裂後,麾下(きか)の第20軍を主力とする八・一南昌蜂起(1927)に参加し,その総指揮に任じ,蜂起後,周恩来の紹介で中共に入党した。敗北後,香港,上海を経て27年末,故郷湖南省西部に入り,翌年周逸群らと遊撃隊を組織し,湘鄂西(湖南・湖北西部)ソビエトを樹立,30年紅第2軍の総指揮となり,主に湖南・湖北・四川・貴州の省境地区でゲリラ戦と土地革命を展開した。
1934年蕭克・任弼時麾下の第6軍と貴州東部に会し,彼が両軍(のち紅第2方面軍となる)の総指揮に任じたが,35年秋,国民党軍に敗れ,11月桑植から長征に出発し,貴州を経て西康に入り,ガルツェ(甘孜)で徐向前・張国燾麾下の第4方面軍に会した。その後,張国燾の分裂主義的な反中央(反毛沢東)西進方針に抗して北上して甘粛,陝西に入り,毛沢東らの第1方面軍と会した。抗日戦中は八路軍120師団を率いて山西北西部や河北省中部を中心に活動し,45年の中共7回大会で中央委員に選出された。戦後の内戦期には西北軍区司令,のち第1野戦軍副司令などとして華北・青海・四川・チベットなどの解放に活躍した。建国後副総理,中共政治局委員,体育運動委員会主任,国防委員会副主席などの要職を歴任した。豪放闊達な性格で,黒鬍子(黒ひげ)のあだ名で親しまれたが,文化大革命初期,林彪,江青らの老幹部迫害を強く批判したため,67年周恩来の庇護も空しく,軍閥のレッテルをはられて監禁,迫害され,69年家族とも隔絶されたまま悲劇的な死をとげた。
執筆者:小島 晋治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報