朱徳(読み)シュトク

デジタル大辞泉 「朱徳」の意味・読み・例文・類語

しゅ‐とく【朱徳】

[1886~1976]中国の軍人・革命家四川省儀隴ぎろうの人。1927年南昌蜂起を指導。翌年井崗山毛沢東と合流し紅軍第四軍を創設。抗日戦争中は八路軍総司令。中華人民共和国成立後は国家副主席・全国人民代表大会常務委員長。チュー=トー。

チュー‐トー【朱徳】

しゅとく(朱徳)

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精選版 日本国語大辞典 「朱徳」の意味・読み・例文・類語

しゅ‐とく【朱徳】

  1. 中華人民共和国の革命家。四川省儀隴県の貧農出身。孫文の中国革命同盟会に加入、ベルリン周恩来を知り、中国共産党に入党。一九二八年、毛沢東と共に中国工農紅軍第四軍を編成。日中戦争中は八路軍総司令、国共分裂後は人民解放軍総司令になる。新中国成立後は国家副主席、党中央政治局委員などを歴任。(一八八六‐一九七六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「朱徳」の意味・わかりやすい解説

朱徳
しゅとく / チュートー
(1886―1976)

中国の軍人、革命家。中国人民解放軍の創始者の一人で育ての親。四川(しせん)省儀隴(ぎろう)の貧農の家庭に生まれ、1909年雲南講武学堂に入学。在学中に中国同盟会に参加し、辛亥(しんがい)革命には蔡鍔(さいがく)軍の歩兵中隊長として参加。蔡の死後、軍閥間の戦争に巻き込まれ、アヘンを吸い妾を囲うすさんだ生活を送る。1922年上海(シャンハイ)で孫文(そんぶん)に会い、これまでの生活を清算し、ドイツに渡る。ベルリンで周恩来(しゅうおんらい)に会い、中国共産党に入党。1923年ゲッティンゲン大学でマルクス主義を学び、革命運動に参加し、追放される。ソ連経由で1926年帰国し北伐に参加。1927年武漢政府の南昌(なんしょう)軍官学校校長兼公安局長に就任。武漢(ぶかん)政府分裂後、同年7月に周恩来、賀竜(がりゅう)らと南昌蜂起(ほうき)を起こしたが失敗、江西(こうせい)、福建(ふっけん)、広東(カントン)を転戦。1928年5月瑞金(ずいきん)ソビエトに入り、毛沢東(もうたくとう)と会い、紅軍第四軍を組織し、総司令となり、1930年紅軍総司令。1931年中華ソビエト臨時政府軍事委員会主席となる。毛沢東とともに李立三(りりっさん)左傾路線に反対し、長沙(ちょうさ)、武漢への進攻作戦放棄を要求。また、蒋介石(しょうかいせき)の包囲討伐軍をゲリラ戦でたびたび撃破した。1934年長征に参加し、1935年1月遵義(じゅんぎ)会議で王明左傾路線を批判し、毛沢東が党の主導権を握ることを支持した。途中、北上抗日に反対した張国燾(ちょうこくとう)とともに、一時南下したが、のち合流。抗日戦争中は八路軍総司令として華北各地を転戦、抗日根拠地を建設し、日本軍と戦い、一方、国民党による陝甘寧(陝西(せんせい)、甘粛(かんしゅく)、寧夏(ねいか))辺区封鎖に対しては生産運動で乗り切った。第二次世界大戦後、中国人民解放軍総指令となり、遼沈(りょうちん)、淮海(わいかい)、平津の三大戦役で国民党軍を壊滅させ、共産党の勝利を確実なものとした。

 中華人民共和国成立(1949)後は国家副主席、国防委員会副主任、党副主席、全国人民代表大会常務委員会委員長を務め、軍事面の最高指導者、党・政府の長老として、周恩来とともに毛沢東を助け、新中国の国づくりに貢献した。文化大革命ではしばしば批判を浴び一時降格されたが、林彪(りんぴょう)失脚後、1973年の十全大会および1975年の第4期全国人民代表大会でもとの地位に返り咲いた。1976年7月6日北京(ペキン)で病死。無欲で誠実な人柄は多くの人々から敬愛された。

[阿川修三]

『スメドレー著、阿部知二訳『偉大なる道』上下(岩波文庫)』

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改訂新版 世界大百科事典 「朱徳」の意味・わかりやすい解説

朱徳 (しゅとく)
Zhū Dé
生没年:1886-1976

中国の革命家。字は玉階。四川省儀隴県の人。農民の出身。毛沢東,周恩来,劉少奇と並ぶ中国共産党および中華人民共和国の第一代の最高指導者の一人。中国人民解放軍創始者の一人で,中国革命における軍事面での貢献はとりわけ大であった。1909年(宣統1)雲南講武学堂(軍官学校)に入学し,この学校の教官で,雲南新軍の建設に尽力していた蔡鍔(さいがく)(松坡)に傾倒した。この年,革命団体の中国同盟会,ついで秘密結社の哥老会に加入し,清末の革命運動に身を投じた。11年,武昌蜂起が起きると,雲南で呼応した蔡鍔に従って辛亥革命に参加,四川に進軍した。15-16年,辛亥革命の果実を盗みとろうとした袁世凱の帝制復活に反対して蜂起した蔡鍔の率いる雲南護国軍に将校として加わり,雲南,四川でたたかった。16年の蔡鍔死後,雲南,四川は護国軍とさまざまの地方小軍閥との混戦の舞台となった。こうしたなかで朱徳はそれまでの軍閥式戦争と軍閥的作風(アヘンの常用や蓄妾など)を脱却し,新しい革命の方途を探求するために留学を決意,22年上海で孫文や陳独秀らと会ったのち,9月ドイツに留学した。ドイツで周恩来と知り合い,同年11月中国共産党に入党した。23年ゲッティンゲン大学に入学,留学中にマルクス主義の理論を学んだ。

 26年国外追放となり,ソ連経由で同年夏帰国,27年武漢政府の任命を受けて南昌軍官学校校長兼公安局長となった。国共分裂と国民党反動派の反共テロ,労農運動の弾圧に抗し,27年8月1日,周恩来,賀竜,葉挺,劉伯承らと共産党影響下の北伐軍第4軍の部隊を率いて南昌で武装蜂起し,蜂起軍の第9軍副軍長となった(南昌蜂起)。南昌撤退後,広東省および湖南省南部を転戦したのち,28年4月,井岡山にたどりつき,毛沢東の部隊と合流した。5月中国工農紅軍第4軍をつくり,その軍長となった。以後毛沢東とともに,毛沢東軍事思想にもとづく建軍の中心的・指導的役割を果たし,毛沢東軍事路線を最も忠実に実行するとともに,毛沢東軍事路線の形成に大きく貢献した。28年井岡山で革命家康克清と結婚し,以後生涯をともにする。30年中国工農紅軍第1軍団軍団長,紅軍第1方面軍総司令,紅軍総司令,31年中華ソビエト共和国臨時政府軍事委員会主席,党内では,30年党中央委員候補,34年中央委員および中央政治局委員を歴任した。

 30年末に始まった国民党軍による大規模な包囲攻撃を巧みに打ち破り,革命根拠地の拡大に貢献したが,34年,党中央・中央紅軍とともに〈長征〉を余儀なくされた。長征途上張国燾(ちようこくとう)が北上を拒んで西康にとどまった際,朱徳は張国燾およびその率いる第4方面軍と行動をともにしつつ張国燾と闘争,36年第4方面軍を指揮して北上し,陝西省で中央に合流させた。37年,国共合作で紅軍より改組された八路軍の総司令となり,山西省の前線で日本軍に抗戦,39年延安へ戻った。45年党中央書記処書記となり,第3次国内革命戦争のときは人民解放軍総司令として作戦を指揮,全国を解放へ導いた。49年党中央紀律検査委書記,党中央軍事委副主席,中華人民共和国政府副主席,54年国家副主席,国防委副主席,56年党中央委副主席,59年全国人民代表大会常務委員長,73年党中央政治局常務委員を歴任した。文化大革命が始まってからは政治の表舞台に登場せず,76年,周恩来,毛沢東と相前後して死去した。
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百科事典マイペディア 「朱徳」の意味・わかりやすい解説

朱徳【しゅとく】

中国の軍人,革命家。四川省の人。清末に中国同盟会に入る。蔡鍔(さいがく)のもとで辛亥(しんがい)革命・第三革命に活躍し,1922年ドイツに留学,そこで中国共産党に入党した。帰国後南昌軍官学校長兼公安局長。1927年南昌蜂起に参加。1928年井岡山(せいこうざん)で毛沢東と合流した。1934年長征を指揮し,1936年北方で毛と再び合流。抗日戦中は八路軍総司令,第2戦区副司令長官などを歴任した。1945年党中央委員,政治局委員となり,1947年中国人民解放軍総司令。人民共和国成立後は国家副主席その他の要職を歴任する。文化大革命で一時批判を受けた。その生涯と時代についてはスメドレーの《偉大なる道》が詳しい。
→関連項目彭徳懐

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「朱徳」の解説

朱徳(しゅとく)
Zhu De

1886~1976

中国現代の政治家,軍人。中国共産党の指導者の一人。四川省儀隴(ぎろう)の人。蔡鍔(さいがく)のもとで辛亥(しんがい)革命に参加。1922年ドイツに留学し,社会主義や軍事を学ぶ。そのとき中国共産党に入党。帰国後北伐に参加。27年南昌暴動を指揮した。28年井崗山(せいこうざん)毛沢東と合流,遵義(じゅんぎ)会議では毛を支持し,以後紅軍の最高指揮官として毛を助けた。日中戦争では八路軍総司令,国共内戦では人民解放軍総司令を務めた。「朱毛軍」と呼ばれ,毛沢東と並ぶ存在であった。中華人民共和国成立後は55年に元帥となり,以後政治の第一線からは身を引く。文化大革命中は批判を受けるが失脚は免れた。76年毛沢東に先立つこと2カ月で死去した。スメドレーの『偉大なる道』はその伝記である。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「朱徳」の意味・わかりやすい解説

朱徳
しゅとく
Zhu De

[生]光緒12(1886).12.1. 四川,儀隴
[没]1976.7.6. 北京
中国の軍事指導者。宣統1 (1909) 年中国革命同盟会に入り,辛亥革命では雲南で活躍。その後一時,四川省の一小軍閥に堕したが,1922年国民党に加入,同年ドイツ留学中に共産党入党。 26年北伐戦争に参加,27年南昌暴動を指導,28年井崗山で毛沢東軍と合流し紅軍を創設した。瑞金ソビエト時代の 31年中央軍事委員会主席となり,30~33年国民党軍の攻撃を撃退。長征の際は 35年四川で紅軍が2分したとき毛沢東と別れ,張国 燾と約1年行動をともにし,36年第4方面軍を指揮して北上,毛と合流した。抗日戦争では八路軍の総指揮として解放区を拡大,47年には解放軍総司令となり,中国革命を成功に導いた。中華人民共和国成立後も解放軍総司令の職にあったが,54年免じられ,国家副主席,国防委員会副主席となった (1959年まで) 。 67年文化大革命で,紅衛兵に激しく批判されたが,73年十全大会で政治局委員に選ばれた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「朱徳」の解説

朱 徳
しゅとく
Zhū Dé

1886〜1976
中国の軍事的指導者,革命家
四川省の生まれ。1922年,ベルリン留学中に中国共産党へ入党。1928年に井崗山 (せいこうざん) で毛沢東と工農紅軍をつくり,軍長として34年長征を指導。1937年日中戦争の勃発後,紅軍を第八路軍に改め,その総司令として抗日戦を指導。戦後は人民解放軍総司令として蔣介石の国民軍を中国本土から追放し,1949年中華人民共和国副主席,54年国防委員会総主席になった。文化大革命では,一時期批判を受けたが,1975年にもとの地位を取り戻した。誠実な人柄で信望が厚かった。

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367日誕生日大事典 「朱徳」の解説

朱 徳 (しゅ とく)

生年月日:1886年12月12日
中国の軍事指導者
1976年没

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世界大百科事典(旧版)内の朱徳の言及

【スメドレー】より

…上海で魯迅,丁玲,尾崎秀実などと交友を深めながら,持ちまえの貧しい者への共感によって共産党の行動に関心をもち,《中国紅軍は前進する》(1934)を書く。37年,延安に入り,朱徳の人格に魅せられて伝記を執筆しはじめたが,日中戦争が勃発したので八路軍の前線に赴いて《中国は抵抗する》(1938)を書く。また宋慶齢らとともに中国赤十字運動でも活躍した。…

※「朱徳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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