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朱徳 しゅとく Zhu De

翻訳|Zhu De

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

朱徳
しゅとく
Zhu De

[生]光緒12(1886).12.1. 四川,儀隴
[没]1976.7.6. 北京
中国の軍事指導者。宣統1 (1909) 年中国革命同盟会に入り,辛亥革命では雲南で活躍。その後一時,四川省の一小軍閥に堕したが,1922年国民党に加入,同年ドイツ留学中に共産党入党。 26年北伐戦争に参加,27年南昌暴動を指導,28年井崗山で毛沢東軍と合流し紅軍を創設した。

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デジタル大辞泉の解説

しゅ‐とく【朱徳】

[1886~1976]中国の軍人・革命家。四川省儀隴(ぎろう)の人。1927年南昌蜂起を指導。翌年井崗山で毛沢東と合流し紅軍第四軍を創設。抗日戦争中は八路軍総司令。中華人民共和国成立後は国家副主席・全国人民代表大会常務委員長。チュー=トー。

チュー‐トー【朱徳】

しゅとく(朱徳)

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百科事典マイペディアの解説

朱徳【しゅとく】

中国の軍人,革命家。四川省の人。清末に中国同盟会に入る。蔡鍔(さいがく)のもとで辛亥(しんがい)革命第三革命に活躍し,1922年ドイツに留学,そこで中国共産党に入党した。
→関連項目彭徳懐

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世界大百科事典 第2版の解説

しゅとく【朱徳 Zhū Dé】

1886‐1976
中国の革命家。字は玉階。四川省儀隴県の人。農民の出身。毛沢東,周恩来,劉少奇と並ぶ中国共産党および中華人民共和国の第一代の最高指導者の一人。中国人民解放軍創始者の一人で,中国革命における軍事面での貢献はとりわけ大であった。1909年(宣統1)雲南講武学堂(軍官学校)に入学し,この学校の教官で,雲南新軍の建設に尽力していた蔡鍔(さいがく)(松坡)に傾倒した。この年,革命団体の中国同盟会,ついで秘密結社哥老会に加入し,清末の革命運動に身を投じた。

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大辞林 第三版の解説

しゅとく【朱徳】

1886~1976) 中国の軍人・革命家。四川省の人。1927年南昌暴動に参加、翌年井崗山で毛沢東と合流し紅軍第四軍を創設。日中戦争中は八路軍総司令、解放戦争では人民解放軍総司令として活躍。国家副主席・中央委員会副主席などを歴任。チュー=トー。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

朱徳
しゅとく / チュートー
(1886―1976)

中国の軍人、革命家。中国人民解放軍の創始者の一人で育ての親。四川(しせん)省儀隴(ぎろう)の貧農の家庭に生まれ、1909年雲南講武学堂に入学。在学中に中国同盟会に参加し、辛亥(しんがい)革命には蔡鍔(さいがく)軍の歩兵中隊長として参加。蔡の死後、軍閥間の戦争に巻き込まれ、アヘンを吸い妾を囲うすさんだ生活を送る。1922年上海(シャンハイ)で孫文(そんぶん)に会い、これまでの生活を清算し、ドイツに渡る。ベルリンで周恩来(しゅうおんらい)に会い、中国共産党に入党。1923年ゲッティンゲン大学でマルクス主義を学び、革命運動に参加し、追放される。ソ連経由で1926年帰国し北伐に参加。1927年武漢政府の南昌(なんしょう)軍官学校校長兼公安局長に就任。武漢(ぶかん)政府分裂後、同年7月に周恩来、賀竜(がりゅう)らと南昌蜂起(ほうき)を起こしたが失敗、江西(こうせい)、福建(ふっけん)、広東(カントン)を転戦。1928年5月瑞金(ずいきん)ソビエトに入り、毛沢東(もうたくとう)と会い、紅軍第四軍を組織し、総司令となり、1930年紅軍総司令。1931年中華ソビエト臨時政府軍事委員会主席となる。毛沢東とともに李立三(りりっさん)左傾路線に反対し、長沙(ちょうさ)、武漢への進攻作戦放棄を要求。また、蒋介石(しょうかいせき)の包囲討伐軍をゲリラ戦でたびたび撃破した。1934年長征に参加し、1935年1月遵義(じゅんぎ)会議で王明左傾路線を批判し、毛沢東が党の主導権を握ることを支持した。途中、北上抗日に反対した張国(ちょうこくとう)とともに、一時南下したが、のち合流。抗日戦争中は八路軍総司令として華北各地を転戦、抗日根拠地を建設し、日本軍と戦い、一方、国民党による陝甘寧(陝西(せんせい)、甘粛(かんしゅく)、寧夏(ねいか))辺区封鎖に対しては生産運動で乗り切った。第二次世界大戦後、中国人民解放軍総指令となり、遼沈(りょうちん)、淮海(わいかい)、平津の三大戦役で国民党軍を壊滅させ、共産党の勝利を確実なものとした。
 中華人民共和国成立(1949)後は国家副主席、国防委員会副主任、党副主席、全国人民代表大会常務委員会委員長を務め、軍事面の最高指導者、党・政府の長老として、周恩来とともに毛沢東を助け、新中国の国づくりに貢献した。文化大革命ではしばしば批判を浴び一時降格されたが、林彪(りんぴょう)失脚後、1973年の十全大会および1975年の第4期全国人民代表大会でもとの地位に返り咲いた。1976年7月6日北京(ペキン)で病死。無欲で誠実な人柄は多くの人々から敬愛された。[阿川修三]
『スメドレー著、阿部知二訳『偉大なる道』上下(岩波文庫)』

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世界大百科事典内の朱徳の言及

【スメドレー】より

…上海で魯迅,丁玲,尾崎秀実などと交友を深めながら,持ちまえの貧しい者への共感によって共産党の行動に関心をもち,《中国紅軍は前進する》(1934)を書く。37年,延安に入り,朱徳の人格に魅せられて伝記を執筆しはじめたが,日中戦争が勃発したので八路軍の前線に赴いて《中国は抵抗する》(1938)を書く。また宋慶齢らとともに中国赤十字運動でも活躍した。…

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