赤塚村(読み)あかつかむら

日本歴史地名大系 「赤塚村」の解説

赤塚村
あかつかむら

[現在地名]新潟市赤塚

北は山崎やまざき村新田、南は坂田さかた新田村に接し、西は越前浜えちぜんはま(現西蒲原郡巻町)、東は広通ひろどおり江が北東流する。西側は砂丘地、東側は水田で集落は砂丘地辺にあり、集落の北西には潟・御手洗みたらせ潟が隣合う。元暦元年(一一八四)一一月二三日の後白河院庁下文写(国上寺文書)に「赤塚」とあり、弥彦社本地国上こくじよう(現西蒲原郡分水町)の寺領とされる。同様に年未詳の弥彦神社縁起断簡(高橋文書)では同社神領四至の北限に「赤塚」の名がみえる。

元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録では高三〇二石二斗余。慶安二年(一六四九)検地帳(赤塚自治連合会保管)には本途高三五八石六斗余・古新田高七五石五斗余・新田高一五五石六斗余とあり、名請人は六四名。天保九年(一八三八)の村明細帳(同会保管)では高一千一三七石余・反別一四〇町九反八畝余で、民家一九三軒のほか、寺二軒・庵一軒・神主一軒とあり、男六一六人・女六三三人・僧一七人・社人二人・医師一人。

赤塚村
あかつかむら

[現在地名]大社町杵築西きづきにし

大土地おおどち村の南、日本海に注ぐほり川の河口北岸に位置し、杵築六ヵ村の一つ。江戸時代は杵築大社(出雲大社)領で国造千家家の支配下に属し、西支配といわれた(杵築旧懐談)。「懐橘談」に「赤塚は大社の南二十余町にあり、民家漁猟を業とす」とある。寛永年間(一六二四―四四)以前の斐伊川は現在の神戸かんど川・堀川の河口付近で日本海に注いでいた。永享三年(一四三一)七月二八日の国造千家高国惣領庶子分知行書立(赤塚家文書)に赤塚とみえる。南北朝期の斐伊川河口部にはおお湊が存在し(建武二年一二月三日「尼覚日譲状」北島家文書)、現在の杵築西地内湊原みなとばら付近にあった湊と推測される。

赤塚村
あかつかむら

[現在地名]野木町南赤塚みなみあかつか

おもい川下流左岸の台地上にあり、東は佐川野さがわの村、西は中谷なかや新田・丸林まるばやし村。中世には小山おやま庄に含まれた。至徳三年(一三八六)七月日の烟田重幹軍忠状案(烟田文書)に「赤塚御陣」とみえ、七月七日小山若犬丸の乱に際し烟田重幹が若犬丸攻撃のため当地に参陣している。翌四年四月には同じく島津政忠が当地に参陣した(同年八月日「島津政忠軍忠状」島津文書)

赤塚村
あかづかむら

[現在地名]鹿沼市北赤塚町きたあかづかまち

くろ川右岸に位置。北は藤江ふじえ村、東は羽生田はにゆうだ(現下都賀郡壬生町)、南は七ッ石ななついし(現同上)、西は亀和田かめわだ村、壬生みぶ通が村の中央を南北に走る。壬生通の西方に判官塚はんがんづか古墳群があり、中核となる判官塚古墳は前方後円墳。慶安郷帳では田一五九石余・畑一六四石余。元禄郷帳では四三七石余。寛永一六年(一六三九)から壬生藩領で、幕末に至る。天保年間(一八三〇―四四)の家数七〇(改革組合村)。壬生通楡木にれぎ宿の定助郷となり、享保一七年(一七三二)の勤高三二四石(「楡木宿助郷高書上」鈴木清一文書)

赤塚村
あかづかむら

[現在地名]銚子市赤塚町

三宅みやけ村の北西、利根川支流の三宅川と高田たかだ川の間に位置する。台地の北側を村の中心とする南北に細長い村域。天正一九年(一五九一)九月当村の検地が行われた(宮内家文書)。延宝二年(一六七四)裁許状(島田家文書)に村名がみえ、正明寺しようみようじ村などと野論を起こしている。同六年当時は旗本松平領(宮内家文書)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分に村名がみえ、高七五石余で幕府領。享保二年(一七一七)当時は旗本長田領(「岡野台村方書上帳」沢井家文書)。旧高旧領取調帳では幕府領二一石余・長田領七五石余。延宝二年近隣九村で入会地白石鶏沢しらいしとりさわをめぐる野論が起き、幕府評定所により当村近隣の主張が認められている。

赤塚村
あかつかむら

[現在地名]大津市滋賀里しがさと二―四丁目・見世みせ二丁目・滋賀里町乙しがさとちようおつ穴太あのう三丁目

見世村の北に位置する。地内山手にあった古墳の石室に朱が塗られ赤塚とよばれたことに由来する地名という。寛永石高帳に村名がみえ、高二九八石余のうち幕府領九八石余のほかは穴太丹後・穴太出雲各一〇〇石となっている。「京都御役所向大概覚書」によると石工集団の穴太頭高村武兵衛・戸波弥次兵衛・戸波市助の三人が慶長期(一五九六―一六一五)から高畑たかばたけ村・当村に各一〇〇石ずつ知行を与えられているので、穴太二氏はこの穴太頭と考えられる。元禄郷帳で幕府領・堅田藩領のほかにみえる町人戸波市助もこの穴太衆と思われる。

赤塚村
あかつかむら

[現在地名]橋本市赤塚

中道なかどう村の東、紀ノ川左岸の河岸段丘から南に続く丘陵地にある。中世は隅田すだ庄に属し、正慶元年(一三三二)八月一三日付の隅田八幡宮放生会頭人差定(隅田家文書)に「アカツカ」とみえ、年不詳の赤塚村根元由緒書(上田頼尚氏蔵)に「当村榊山上田殿先祖廟塚崇阿赤塚云々、当村巽当岩王山是也、小祠建立奉廟号崇五大明神、右廟塚ヲ以赤塚ト村名号也」と地名の由来を記す。南に榊山さかきやま城跡と伝える地があるが、詳細は明らかでない。「続風土記」に「村中に土居跡あり、上田氏の下屋敷ならん」と記す。また同書に「古墓、村の坤にあり、上田播磨守の墓といひ伝ふ」とある。

赤塚村
あかつかむら

[現在地名]水戸市赤塚一―二丁目・石川いしかわ三丁目・東赤塚ひがしあかつか見和みわ三丁目・河和田かわわだ一丁目・姫子ひめこ一―二丁目

水戸城下の西に位置する地勢平坦な村。東と北は常葉ときわ村。笠間道が村の南を東西に貫く。「水府志料」に「此村古河和田村分け郷赤塚新田、元禄中新田を改て村とす」とあり、「新編常陸国誌」には「此地モトハ川和田村ヨリ分レテ赤塚新田ト云ヒシヲ、元禄七年ニ至テ新田ノ称ヲ除キタリ」とみえる。

赤塚村
あかつかむら

[現在地名]谷田部町赤塚

立野たての村東南、小野おの川東北岸に位置。村域の八木やぎ遺跡・駒形こまがた遺跡は集落跡で土師器が出土。江戸時代には旗本由良氏の知行地となって廃藩置県に及び、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には由良信濃守の知行地で村高三〇一・一九九石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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