赤水村(読み)あかみずむら

日本歴史地名大系 「赤水村」の解説

赤水村
あかみずむら

[現在地名]桜島町赤水・赤水字新島あかみずあざしんじま

桜島みなみ岳の西に位置し、北は横山よこやま村。永享一一年(一四三九)二月一八日の島津用久袖判証状(薩州用久系図)に「向島赤水之内園一ケ所」とみえ、島津用久(持久、薩州家祖)は鹿児島福昌寺慧灯えとう院に高崎太伝禅門が寄進した同地などを改めて安堵している。天文六年(一五三七)一二月二四日、薩州家島津実久によって鹿児島を追われた島津勝久は、清水きよみず(現国分市)城主本田董親をむかい(桜島)の地頭に任じ、赤水・たけ藤野ふじの松浦まつうら・さいたう(西道)を宛行い忠節を賞しているが(「島津勝久宛行状」旧記雑録)、同八年には勝久と対立していた島津貴久が喜入忠俊に赤水を与えたという(樺山玄佐自記)。弘治三年(一五五七)蒲生かもう(現蒲生町)を攻略した貴久は、この戦で嫡男助太郎を失った樺山幸久(善久・玄佐)に赤水を与えた(同書)


赤水村
あかみずむら

[現在地名]延岡市赤水町

鯛名たいな村の東、遠見山とおみやま半島の北岸部にあり、北部の西・北・東は日向灘に面し、南部は丘陵を背負っていて平地が少ない。大半が漁業に従事して漁閑期に農業を行った。海運の便はよかったが陸運は悪かった。鯛名村庄屋の支配で鯛名村と一村扱いされることもあった(「伊能忠敬測量日記」など)。寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)に村名がみえ、高一二石余。万治四年(一六六一)延岡藩村高内検高覚では内検高二一石余。


赤水村
あかみずむら

[現在地名]北部町和泉いずみ 赤水

井芹いせり川右岸に沿い、北東対岸は田畑たばた村、南西桑鶴くわづる村、西は河東かわひがし村に接する。「国誌」によれば五町手永に属し、宝暦一二年(一七六二)の下ケ名寄帳によれば田畑合せて一八町九反三畝余、うち一六町一反八畝余・高一九七石九斗余が給知であった。


赤水村
あこうずむら

[現在地名]四日市市赤水町

上海老原かみえびはら村の南、竹谷たけたに川の南岸平地にあり、長禄二年(一四五八)の伊勢国智積御厨年貢帳(醍醐寺文書)に「十文俵炭 百五十籠赤水郷願妙大夫」とでる。天正一一年(一五八三)内宮神領本水帳写には「弐百文守平 あかう」とある。江戸時代を通じて津藩領。寛延(一七四八―五一)頃の「宗国史」によれば、戸数五四、人口二二四、馬四、牛三。神社は春日明神一。天保五年(一八三四)の年貢高は米一四八俵余。小物成は四一俵余(「御物成并小物成御通写帳」鈴鹿市立図書館蔵服部家文書)


赤水村
あかみずむら

[現在地名]笹神村赤水

北は野村新のむらしん村、南は須走すばしり村に接する。正保国絵図に村上藩領として村名が載る。寛文一三年(一六七三)の組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では山崎組に属し、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳には高一一七石七斗余とある。宝永四年(一七〇七)頃の山崎組御巡見御案内帳(渡辺家文書)によれば高一一一石余(ほかに他領出作三四石余)・田畑反別九町余、家数八、男四〇・女三八。


赤水村
あかみずむら

[現在地名]阿蘇町赤水

北東は永草ながくさ村、西は車帰くるまがえり村と接する。近世には内牧手永に属し、「国誌」に「平ト云小村アリ」と記す。天保九年(一八三八)の村々調では田畑二三町、高一六六石・御出物成六一石、竈数四二・人口三二五、牛六五・馬一二五である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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