中国の王莽(おうもう)政権(新)末期の農民反乱。王莽政権を滅ぼしたのは、各地に勃発(ぼっぱつ)した農民と豪族の反乱といわれるが、農民反乱の代表が山東地方に発生したこの赤眉の乱である。
赤眉の乱は17年に、琅邪(ろうや)郡の海曲県(山東省東部)の呂母(りょぼ)という女性が、県の長官に殺された自分の息子の復讐(ふくしゅう)のために徒党を組んで起こした事件に端を発する。貧窮のため生業をもてなかった貧農の二、三男(悪少年)、耕すべき土地をもてずに流民となった者たち(亡命者)の集団が、呂母の私的目的を果たしたあともその勢力を保ち、王莽政権に対する反抗集団へと変質していった。1年ほどのうちに数万人に成長した集団は、やがて琅邪の人、樊崇(はんすう)を指導者とし、22年には王莽が鎮圧のため派遣した精鋭部隊10余万に勝った。このとき樊崇らは自らの軍兵の眉(まゆ)を赤く染めさせ、これによって王莽軍の兵と区別させた。赤眉の名はこれによる。23年に南方面から南陽郡(河南省)の劉(りゅう)氏一族の反乱勢力が強大となり、洛陽(らくよう)に都して劉玄が更始帝と称すると、赤眉集団は一時これに服属した。更始帝は24年には長安に入って王莽を倒したが、これに失望した赤眉集団は、自らの王朝形成を目的とする集団への意志を固め、15歳の劉盆子を天子に推戴(すいたい)し年号も建世と改め、他の農民反乱集団と共同して長安への進撃を開始した。翌25年に長安入城、更始帝は降服したが、赤眉集団は王朝としての機構を欠いていたため、その行動の略奪性にとどめようがなく、しだいに関中の大姓、豪族の支持を失い、関中を基盤とする政権を保てなくなった。そして27年山東へ退去することになった赤眉集団は、その途中を撃った劉秀(光武帝)に対し、全軍10余万人が降服した。
[春日井明]
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王莽(おうもう)の新政策が誘発した農民反乱の一つ。18年反乱が山東に起こり,王莽政権の崩壊後も長安を攻略したが,27年劉秀(りゅうしゅう)に鎮定された。衆徒が眉(まゆ)を朱で染めて目印としたことからこの名がある。
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