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赤眉の乱 せきびのらんChi-mei; Ch`ih-mei

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

赤眉の乱
せきびのらん
Chi-mei; Ch`ih-mei

中国,末の大農民反乱。眉を赤く塗ったためにこの名がある。『周礼』などに範をとった極端に復古的な王莽の政治は,豪族層の利害に反し,農民の生活をも混乱に陥れた。このため建国後各地に反乱が続出した。なかでも天鳳4(17)年琅邪(ろうや),海曲(山東省日照県)で起こった呂母の乱は,翌年莒県に挙兵した樊崇(はんすう)らと合流して十数万の大集団となり,王莽打倒を旗印とした。同じ頃南陽の豪族集団も挙兵し,更始1(23)年には更始帝劉玄を立て,翌年長安を占領した。長安占領の前年王莽が殺されると,赤眉は目標を失い,一時更始帝にくだったが,たちまち離反し,更始帝打倒を掲げて長安に攻め入った。ときにその勢 100万と号し,少年劉盆子を立てて天子とした。しかし長安は豪族軍に包囲されて食糧難に陥り,略奪を事としたために住民の反感を招き,ついに故郷の山東に帰らざるをえなくなった。その帰途,劉秀(→光武帝)の迎撃にあって降伏し(27),首領たちは洛陽に田宅を与えられ,樊崇はのちに殺された。

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デジタル大辞泉の解説

せきび‐の‐らん【赤眉の乱】

中国、末期の18年、王莽(おうもう)失政から起きた農民の反乱。参加した者は眉(まゆ)を朱で染めて目印とした。27年、後漢光武帝に平定された。赤眉の兵。

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百科事典マイペディアの解説

赤眉の乱【せきびのらん】

中国,末に王莽(おうもう)の新政策が誘発した農民反乱。中国史上屈指の規模をもつ。後18年山東地方に起こり,王莽政権の崩壊(23年)後も長安を攻略するなど威を振るったが,27年劉秀(光武帝)によって鎮定された。

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世界大百科事典 第2版の解説

せきびのらん【赤眉の乱】

中国,前漢(前206‐後8)を簒奪した王莽(おうもう)政権末の民衆反乱。眉を朱で染めて目印にしたので赤眉chì méiとよばれた。王莽の政治は破綻して社会不安を生み,飢饉も頻発して各地に民衆が蜂起した。18年(天鳳5)山東一帯の反徒が集結して赤眉集団を組織,大軍勢となった。さらに豪族層も起兵,この混乱の中で新王朝は滅亡する(23)。やがて赤眉は自ら天子を立てて漢王朝の再興をめざし,更始帝(劉玄)を破って長安を占拠するが,秩序を確立できず,27年(建武3)光武帝に投降した。

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大辞林 第三版の解説

せきびのらん【赤眉の乱】

〔王莽の兵と区別するため眉を朱で塗ったことに由来〕
中国の前漢末、王莽の失政によって、18年樊崇はんすうらが山東で挙兵し、華北一帯に波及した農民反乱。27年劉秀(後漢の光武帝)に鎮定された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

赤眉の乱
せきびのらん

中国の王莽(おうもう)政権(新)末期の農民反乱。王莽政権を滅ぼしたのは、各地に勃発(ぼっぱつ)した農民と豪族の反乱といわれるが、農民反乱の代表が山東地方に発生したこの赤眉の乱である。
 赤眉の乱は17年に、琅邪(ろうや)郡の海曲県(山東省東部)の呂母(りょぼ)という女性が、県の長官に殺された自分の息子の復讐(ふくしゅう)のために徒党を組んで起こした事件に端を発する。貧窮のため生業をもてなかった貧農の二、三男(悪少年)、耕すべき土地をもてずに流民となった者たち(亡命者)の集団が、呂母の私的目的を果たしたあともその勢力を保ち、王莽政権に対する反抗集団へと変質していった。1年ほどのうちに数万人に成長した集団は、やがて琅邪の人、樊崇(はんすう)を指導者とし、22年には王莽が鎮圧のため派遣した精鋭部隊10余万に勝った。このとき樊崇らは自らの軍兵の眉(まゆ)を赤く染めさせ、これによって王莽軍の兵と区別させた。赤眉の名はこれによる。23年に南方面から南陽郡(河南省)の劉(りゅう)氏一族の反乱勢力が強大となり、洛陽(らくよう)に都して劉玄が更始帝と称すると、赤眉集団は一時これに服属した。更始帝は24年には長安に入って王莽を倒したが、これに失望した赤眉集団は、自らの王朝形成を目的とする集団への意志を固め、15歳の劉盆子を天子に推戴(すいたい)し年号も建世と改め、他の農民反乱集団と共同して長安への進撃を開始した。翌25年に長安入城、更始帝は降服したが、赤眉集団は王朝としての機構を欠いていたため、その行動の略奪性にとどめようがなく、しだいに関中の大姓、豪族の支持を失い、関中を基盤とする政権を保てなくなった。そして27年山東へ退去することになった赤眉集団は、その途中を撃った劉秀(光武帝)に対し、全軍10余万人が降服した。[春日井明]

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