デジタル大辞泉
「新」の意味・読み・例文・類語
あら【新】
[接頭]名詞に付いて、新しい、という意を表す。「新所帯」「新盆」
にい〔にひ〕【新】
[語素]名詞の上に付いて、初めての、新鮮な、初々しい、などの意を表す。「―妻」「―盆」
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
しん【新】
- [ 1 ] 〘 名詞 〙
- ① 今までの古いものがあらたまること。また、そのもの。新しいこと。⇔旧。
- [初出の実例]「かの浮雲なる者世に出でて言文一致を世人に示せしより、新を好み奇を好むの世の中」(出典:筆まかせ(1884‐92)〈正岡子規〉一)
- ② 官位などに新しくつくこと。新任。また、その人。接頭語のように用いることが多い。
- [初出の実例]「この程は新中納言・いづみ式部などにおぼしつきて」(出典:栄花物語(1028‐92頃)鳥辺野)
- ③ できて間もないこと。作られてから長くたっていないこと。また、そのもの。とくに、新米・新茶などをいう。
- [初出の実例]「此中の新酒(シン)は」(出典:滑稽本・東海道中膝栗毛(1802‐09)初編)
- [その他の文献]〔礼記‐月令〕
- ④ 「しんぞう(新造)⑤」の略。
- [初出の実例]「これ新(シン)や、どこへいってゐる。これ新、新」(出典:洒落本・遊子方言(1770)更の体)
- ⑤ 「しんぎん(新銀)」の略。
- [初出の実例]「爰にはうりためかけのよりかねも有はづ。新でたった弐百匁斗」(出典:浄瑠璃・女殺油地獄(1721)下)
- ⑥ 「しんれき(新暦)」の略。
- [初出の実例]「隣近所の村々が次第に新の年月を迎へるやうにならうとも」(出典:牛部屋の臭ひ(1916)〈正宗白鳥〉一)
- ⑦ 「しんかぶ(新株)」の略。
- [ 2 ] 紀元八年から二三年まで続いた中国の王朝名。前漢を簒奪(さんだつ)した王莽が建てた王朝。都は長安。急激な諸改革による、豪族、人民の不満と、対外政策の失敗から国勢を損ない、わずか一五年で、劉秀(後漢の光武帝)によって滅ぼされた。
あら‐た【新】
- 〘 形容動詞ナリ活用 〙
- ① 今までと違って新しいさま。今までにないさま。
- [初出の実例]「冬過ぎて春の来たれば年月は新(あらた)なれども人は古りゆく」(出典:万葉集(8C後)一〇・一八八四)
- 「敷島ややまとことわざ君が世にあらたになれる恵みをぞ知る」(出典:広本拾玉集(1346)五)
- ② ( 「あらたに」の形で ) 改めて行なうさま。物事を新しくするさま。
- [初出の実例]「四海を治めし、おん姿、あらたに見よや、君守る、八百万代の、しるしなれや」(出典:謡曲・金札(1384頃))
- ③ 見た目にはっきりとわかるさま。鮮やかで、ありありと見えるさま。
- [初出の実例]「雲もなく谷は山さへはれ行けば水の色こそあらた成けれ」(出典:類従本千里集(894))
- ④ ( 「灼」の字を当てることもある ) 効果、結果などが著しいさま。特に神仏の霊験や、善悪の報いが、たちどころにはっきり現われるさま。あらたか。いやちこ。
- [初出の実例]「初瀬なむ、日の本のうちにはあらたなるしるしあらはし給ふ」(出典:源氏物語(1001‐14頃)玉鬘)
- 「昔は此様(かくやう)に下臈医師共の中にも、新たに此(かく)病を治し愈(いや)す者共なむ有ける」(出典:今昔物語集(1120頃か)二四)
新の語誌
「万葉集」等の例で、「新」の意の語根アラタの存在は想定出来るが、「新」字をアラタと訓む確例は「史記孝文本紀延久点」が古く、和文脈では見られない。和文脈におけるアラタは、④の意であるが、これは近世後期にはアラタカとなる。
あら【新】
- [ 1 ] 〘 造語要素 〙 名詞の上について、新しいものであることを表わす。「あら身」「あら物」「あら手」など。→「あら(荒・粗)」の語誌。
- [初出の実例]「時々に花も得咲ぬ新畠(アラはたけ)〈之道〉 昼茶わかして雲雀かたむく〈珍碩〉」(出典:俳諧・江鮭子(1690))
- [ 2 ] 〘 名詞 〙
- ① 新しいもの。新品。
- [初出の実例]「新をしめるも神は手伝ふ」(出典:雑俳・続折句袋(1780))
- 「たかだか新(アラ)の鉄瓶位しか、彼(あ)んな所ぢゃ買へたもんぢゃありません」(出典:門(1910)〈夏目漱石〉九)
- ② 特に、処女または童貞をいう。
- [初出の実例]「あらは来れども摺(すり)こ木にあらはまれ」(出典:雑俳・末摘花(1776‐1801)三)
さら【新・更】
- [ 1 ] 〘 名詞 〙 ( 形動 ) 手の加わっていないさま。あたらしいさま。また、そのもの。〔浪花聞書(1819頃)〕
- [初出の実例]「新裁(サラ)の浴衣が濡れうぞえ」(出典:鉄幹子(1901)〈与謝野鉄幹〉小百合)
- [ 2 ] 〘 接頭語 〙 名詞の上につけて、そのものが新しいこと、手が加わっていないことを表わす。「さら世帯」「さら袴」「さら地」など。
あらたし【新】
- 〘 形容詞シク活用 〙 =あたらしい(新)
- [初出の実例]「安良多之支(アラタシキ)年の始めに」(出典:催馬楽(7C後‐8C)新しき年)
- [その他の文献]〔観智院本名義抄(1241)〕
新の語誌
→「あたらしい(新)」の語誌
にいにひ【新】
- 〘 造語要素 〙 名詞の上に付いて、はじめての、新鮮な、ういういしいなどの意を添える。「にい嘗(なめ)」「にい草」「にい枕(まくら)」「にい司(つかさ)」「にい妻」「にい盆」など。
にいしにひし【新】
- 〘 形容詞シク活用 〙 あたらしい。
- [初出の実例]「故別に新(ニヒシキ)鈎(ち)を作りて兄に与ふ」(出典:日本書紀(720)神代下(鴨脚本訓))
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
新 (しん)
Xīn
中国,王莽(おうもう)が前漢王朝を奪してたてた王朝。8-23年。外戚で大司馬の王莽は紀元5年(元始5)に平帝を毒殺して仮皇帝を名のり,8年に真天子の位につき,国号を新と称して王朝を創始した。儒教の熱心な信奉者であった王莽は,即位すると儒教主義による中央集権的理想国家の建設を目ざして種々の改革に着手した。なかでも注目されるのは,土地制度の改革をふくむ社会政策である。
前漢の後半期に顕著となる大土地所有の進行は,大きな社会的・政治的問題となって解決を迫られていた。そこで王莽は王土思想にもとづいて天下の田を王田と称して売買を禁止するとともに,男子8人以下の家では1井(約4.1ha)を限度とし,それ以上の田地を所有するものは,超過分を親族や郷村のものに分け与えることを命じた。王田とか1井という用語からも明らかなように,これは周代に行われたと伝えられる井田制を理想として復活したものであった。しかし,歴史に逆行するこの制度はもともと実施不可能であったうえに,地主や豪族の猛烈な反対にあって,わずか3年で廃止されてしまった。また奴婢については,これを私属と称し,やはり売買を禁止することで解決しようとした。しかし奴婢は無制限な土地の兼併によってもたらされたものであり,土地問題を解決しないかぎり法令で禁止しようとしても抑えられるものではなかった。これらの王莽の改革は,当時の客観的な状況を見定めることなく,儒家によって理想化された古典の制度を無批判に適用した尚古的な改革であったために,効果をあげるどころか問題をいっそう深刻にした。そのほか経典に準拠した大幅な官制の改革や,官名や地名などの名称の変更は,行政の円滑さを欠いて官,民ともに混乱におとしいれた。また武帝以来の通貨として定着していた五銖銭を廃止して金,銀,銅,亀,貝の28種類もの貨幣を発行したり,政府が市場の取引に介入して商品の流通をいちじるしく阻害するなど,経済面でも大混乱をひきおこした。加えて王莽は極端な中華思想により,漢に服属して王位を授けられた外国の君長をすべて侯に格下げし,王から侯の印綬(印とそのひも)に改めた。そのため宣帝のとき以来恭順の意を表し友好関係にあった匈奴をはじめ,周辺諸民族の怒りをかうことになった。
このように王莽の諸改革はことごとく失敗し,対内的には人心を失い,対外的にも周辺諸国の離反を招くなど内外の情勢が悪化する中で,18年(天鳳5)ついに山東で赤眉の農民反乱が起こった。これが導火線となって農民や豪族が各地で蜂起したが,南陽の豪族劉秀(後漢の光武帝)は23年(地皇4)に王莽の主力軍を昆陽(河南省)に破って大勢を決し,その年に王莽は殺されて新は建国いらいわずか15年で滅亡した。しかし注意すべきは,王莽のとった儒教主義の政治は次の後漢時代に入ると王朝の基本方針として継承され,儒教は中国社会の中に深く根をおろすことになった点である。この意味で,新は短命に終わったとはいえ,その歴史的意義は大きい。
執筆者:永田 英正
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
新(中国の王朝)
しん
中国の王朝(9~23)。王莽(おうもう)が前漢王朝を簒奪(さんだつ)して建てた。王莽は前漢第11代皇帝元帝(げんてい)の外戚(がいせき)王氏一族の一人として頭角を現し、そして最後の皇帝、9歳の平帝(へいてい)の大司馬(だいしば)となり国政を総覧、やがて平帝を毒殺して2歳の劉嬰(りゅうえい)を皇太子にたて、自ら古(いにしえ)の周公をまね摂政(せっしょう)となり実権を握り仮皇帝と称した。そして西暦9年には、「王莽、真天子となれ」と記された符命の出現を盾についに皇帝位につき、国号を新とした。符命とは天帝から下される天意であり、絶対的権威があると当時考えられていた。それは、前漢末期には儒教思想のなかの哲学的側面よりも、社会道徳を強く説く経書に対して、宇宙の真理や予言を示す緯書(いしょ)が出現、儒教がその体系内に讖緯説(しんいせつ)とよばれるその神秘主義を取り入れた結果であった。新王朝15年間に、『周礼(しゅらい)』を中心とする古文学派の復古的儒教思想と神秘思想の下に内政・外交の改革が続々と施行された。しかしたび重なる官制、官名、地名の改変や貨幣の改鋳は人々の不平を招いた。また、前政権以来の社会問題である大土地所有者の増大と商工業者の暴利による、農民の土地喪失と貧窮化を解決しようとして行った土地法令、国家専売制の強化策は、豪族層の反抗を生じてすべて失敗に帰した。対外政策面でも漢代からの安定的な冊封(さくほう)体制を否定することによって匈奴(きょうど)、西域(せいいき)諸国などの離反をよんだ。
新王朝を短命に終わらせた主因は、疲弊した広範な農民の反乱と、王莽の政策に反対する豪族の反乱であった。前者の代表が山東の赤眉(せきび)の乱、後者が南陽の劉氏一族蜂起(ほうき)であった。23年10月、劉玄(りゅうげん)(更始帝(こうしてい))の軍は長安城内に突入、3日間の白兵戦ののち、王莽は首を切られ、遺体は切り刻まれて兵士たちに食べ尽くされたという。このように新は短命であるが、中国史上最初の無血による政権交代であること、国家の祭祀(さいし)儀礼の改革、儒教の国教化の完成、施策のなかの王道天下的理想主義など、後世の各王朝を規定する儒教主義の出現として非常に注目される。
[春日井明]
新(旧町名)
しん
群馬県南部、多野郡(たのぐん)東端にあった旧町名(新町(まち))。現在は高崎市(たかさきし)の南東部に藤岡市(ふじおかし)をはさんで飛び地として位置する。旧新町は1889年(明治22)町制施行。2006年(平成18)高崎市に編入。商工業都市で、JR高崎線および国道17号が通じる。近くに関越(かんえつ)自動車道と上信越自動車道が接続する藤岡ジャンクションがある。旧中山道(なかせんどう)の宿場町であったが、1877年(明治10)内務省勧業寮屑糸(くずいと)紡績所が開設され、ドイツ人、スイス人指導のもとに動力機による絹糸紡績業が発足した。これが旧町の特色で、1887年民営に移り、1911年(明治44)鐘淵紡績会社(かねがふちぼうせきがいしゃ)となったが、1975年(昭和50)絹紡を休止、カネボウ食品会社(現、クラシエフーズ)新町工場と改称した。このほか、電気機器、金属などの工場があり、陸上自衛隊の新町駐屯司令地、上武大学もあって、都市化が進みつつある。旧新町は群馬県市町村中最小の面積(3.74平方キロメートル)で、最大の人口密度(1平方キロメートル当り3359人)をもった。なお、戦国末期、滝川軍と北条軍が激突した地で、神流川(かんながわ)古戦場跡碑や合戦首塚がある。
[村木定雄]
『『新町町誌』(1989・新町)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
新【しん】
中国の王朝。後8年王莽(おうもう)が前漢を倒して建国。しかし内外の施策に失敗。たちまち反乱が起こって,23年王莽の敗死により滅亡,25年漢室が後漢(漢)として再興した。
→関連項目貨泉|赤眉の乱
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
新
しん
群馬県中南部,高崎市東部の飛び地で,旧町域。利根川の支流烏川と神流川の合流地点にある。東で埼玉県に接する。 1889年町制。 2006年高崎市に編入。中山道の宿場町として発達。 1877年に官営の絹糸紡績所が設立されて以来,商工業の町として発展。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
新
しん
8〜23
王莽 (おうもう) が前漢を倒して建てた国
新の名は,王莽が新都侯であったのによる。復古政策で混乱を招き,赤眉 (せきび) の乱で国は分裂し,王莽は殺害された。劉秀 (りゆうしゆう) (後漢 (ごかん) 光武帝)がこの混乱を収拾し,漢を再建した。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の新の言及
【王莽】より
…中国,[新]王朝の創始者。前漢元帝の王皇后の庶母弟王曼の子。…
※「新」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」