道璿(読み)どうせん

日本大百科全書(ニッポニカ)「道璿」の解説

道璿
どうせん
(697―760)

中国の。河南省許州に生まれる。氏。のち洛陽(らくよう)の大福先寺の定賓(じょうひん)に受戒しに通じる。ついで普寂(ふじゃく)(651―739)から華厳(けごん)を学ぶ。733年(天平5)に日本僧栄叡(ようえい)(生年不詳)、普照(ふしょう)(生没年不詳)が入(にっとう)し、道璿に日本へ戒律を伝えることを懇請。インドの菩提僊那(ぼだいせんな)、林邑(りんゆう)(インドシナ半島南東にあった国)の仏哲(ぶってつ)と遣唐船で来朝、736年5月大宰府(だざいふ)着。奈良・大安寺西唐院で律や『梵網経(ぼんもうきょう)』を講じ、多くの日本僧に授戒した。晩年、突然吉野の比蘇(ひそ)寺に引退。当時の僧の山岳隠棲(いんせい)を促した。『註(ちゅう)梵網経』『四季追福文』などを著す。

[木内曉央 2017年3月21日]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus「道璿」の解説

道璿 どうせん

702-760 唐(とう)(中国)の僧。
嗣聖19年生まれ。栄叡(えいえい),普照の要請をうけ,天平(てんぴょう)8年菩提僊那(ぼだいせんな),仏哲らと来日。大和(奈良県)大安寺で律,禅,華厳(けごん)をおしえひろめ,天平勝宝3年律師となる。4年東大寺大仏開眼供養会(かいげんくようえ)の呪願(じゅがん)師をつとめた。天平宝字4年閏(うるう)4月18日死去。59歳。俗姓は衛。著作に「註梵網経(ちゅうぼんもうきょう)」など。

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精選版 日本国語大辞典「道璿」の解説

どうせん ダウセン【道璿】

中国、唐の戒律宗の僧。禅・華厳にもくわしい。河南許州の人。天平八年(七三六)インド僧菩提僊那らとともに来日、奈良仏教形成に重要な役割を果たした。大安寺で「四分律行事鈔」を講じ、また「梵網経疏」を著わす。華厳宗初伝禅宗の第二伝。天平宝字四年(七六〇)没。

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世界大百科事典 第2版「道璿」の解説

どうせん【道璿 Dào xuán】

702?‐760?
中国,唐代中期の律僧。姓は衛。河南許州の人。洛陽の大福先寺で定賓について律を,嵩山普寂より禅をうける。入唐僧栄叡(ようえい)らによる戒師招請に応じ,736年(天平8)インド僧菩提僊那(ぼだいせんな)らとともに,日本に渡り奈良大安寺の西唐院に入った。751年(天平勝宝3),勅によって律師となり,鑑真来朝の先駆として,東大寺の大仏開眼の導師となるが,晩年に吉野の比蘇山に退き,《註菩薩戒経》を著す。来日に際して道璿は,《華厳経》章疏(教論と注釈)をもたらし,日本における華厳の初伝として知られるが,禅の第二伝でもあった。

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世界大百科事典内の道璿の言及

【大仏開眼】より

… 752年4月9日の法会には,天皇,上皇,皇太后以下多くの官人が参列し,1万人の僧尼を招いて盛大な開眼供養が行われた。開眼導師にはインドの帰化僧バラモン・ボジセンナ(菩提僊那(ぼだいせんな)),講師に隆尊,読師に延福,咒願師に唐僧道璿(どうせん)が起用され,行基の弟子景静は都講となり法会を総括した。ボジセンナの用いた筆墨は現に正倉院に伝わり,参集の人々とともに開眼に擬した開眼縷も伝わっている。…

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