奈良仏教(読み)ならぶっきょう

百科事典マイペディア 「奈良仏教」の意味・わかりやすい解説

奈良仏教【ならぶっきょう】

奈良時代国家仏教をいう。国家鎮護の役割を担い,《金光明経》などの護国経典が尊重され,大規模な写経が行われた。これらの経典を安置し,国家安穏の祈願をする国分寺国分尼寺が各国に建立された。寺院は国家や貴族庇護を受け,奈良中期にはいわゆる〈南都六宗〉が成立,官寺を中心に天平文化が花ひらいた。一方,僧尼令(そうにりょう)によって僧尼を厳しく統制,民間への不法な布教や私度を禁じた。僧のなかには道鏡のように権力と結びつく者も多かったが,行基(ぎょうき)のように民衆救済のための社会事業に没頭した僧もいた。
→関連項目平安仏教

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「奈良仏教」の意味・わかりやすい解説

奈良仏教
ならぶっきょう

奈良時代に行われた仏教の称で,南都仏教ともいう。伝来以来,推古天皇から三宝興隆の詔が下り,聖徳太子らの理解のもとに国家宗教の色彩濃く受入れられた仏教は,奈良時代になっていよいよ国政と不可分の関係を強めるにいたった。国分寺や国分尼寺の創設,東大寺大仏の建立などに象徴される鎮護国家,統一国家への祈念は,一方で唐僧鑑真らの授戒制度の確立や教学振興の実となって現れ,南都六宗の成立をみた。そして宮廷のみならず地方にも発展して神仏習合,本地垂迹の思想を展開するようになった。しかし,道鏡に代表される崇仏政治の弊は,やがて平安時代の粛正にあう運命を宿していた。ただ,芸術の面では,飛鳥・白鳳の美に唐風を加えた豪華絢爛たる天平美術の特色を生み,建築に造像に各種の傑作を残している。また,宮廷行事に基づく諸種の民間習俗もこの時代に興って今日に伝わるものが多く,架橋,開拓,造池その他の社会事業が始められたこととともに奈良仏教の影響として高く評価されてよいであろう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「奈良仏教」の解説

奈良仏教
ならぶっきょう

8世紀,平城京の時代に栄えた仏教とその文化をいう。当時の仏教は,律令国家の管理統制下で興隆が図られ,鎮護国家を目的とした国家仏教であった。大規模な伽藍をもつ官寺が建立され,護国法要が営まれた。僧尼は国家の管理下で得度受戒し,僧尼令によりその行動が規制された。とくに為政者の仏教信仰が盛りあがりをみせたのは聖武天皇の天平年間(729~749)で,都に盧舎那(るしゃな)大仏東大寺が造営され,各国に国分寺・国分尼寺が建立された。官寺では南都六宗を中心とする仏教教学の研究が盛んで,僧尼は官人的な存在として国家への奉仕が義務づけられた。仏教信仰の隆盛は僧の政治的進出を導き,法王道鏡(どうきょう)のような政僧も現れたが,やがて桓武天皇によって改革が試みられることとなった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「奈良仏教」の解説

奈良仏教
ならぶっきょう

奈良時代の鎮護国家のための仏教
聖武天皇は,政治の行きづまりを打開するために仏教を利用しようとし,国分寺・東大寺を創建。奈良の都が仏教の中心地となり,東大寺・興福寺・薬師寺・大安寺・唐招提寺などの寺が建てられた。これらの寺では国家の安泰を祈禱し,仏教の学問研究が盛んで,学団が組織され,南都六宗が成立し,経論があちこちの写経所で写された。教義は,仏性のあるものと,ないものとに区別し,無仏性のものは救済の対象外に置かれた。行基・鑑真のような高僧も現れたが,後期になると道鏡のように政治に関係する僧も現れ,政教混同の弊害もおこった。

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