普照(読み)ふしょう

改訂新版 世界大百科事典 「普照」の意味・わかりやすい解説

普照 (ふしょう)

8世紀の入唐留学僧。生没年不詳。もと興福寺の僧。帰国後,東大寺唐禅院に住し,晩年西大寺大鎮となる。業行とも称した。母は白猪(しらい)与呂志女。733年(天平5)4月の第9次遣唐使丹治比広成に従い,舎人親王の命をうけ栄叡(ようえい)とともに入唐し,伝戒師の招請のため生死を賭して努力した。まず洛陽大福先寺で具足戒をうけ,道璿(どうせん)に日本への渡航を勧誘し,さらに栄叡とともに留学求法すること10年,742年に揚州大明寺に鑑真和上を訪ね,鑑真一行の渡航を懇願した。鑑真はその熱情と日本の仏教の実情を伝聞し,授戒伝法の志を果たそうとした。翌年にまず第1回の渡航を計画したが,弟子僧の密告で失敗し,その後も官憲の捕縛や遭難のほか,同朋栄叡の死に遇うなど,多くの辛酸苦難にも屈せず,753年(天平勝宝5)鑑真は第10次遣唐還却船の大伴古麻呂の船に,普照は吉備真備の船に乗って日本に到着し,翌754年に平城京に入った。鑑真が報告した在唐中教化した弟子らの中に,法進に次いで普照の名があげられている。759年(天平宝字3)6月,畿内七道諸国の道路両辺に菓樹を植えて,往還の人々の疲労を除かんことを上奏し,766年(天平神護2)2月には,普照の功績によるものか,母は正六位上より従五位下に叙された。780年(宝亀11)12月の《西大寺資財流記帳》の巻末には,同寺の大鎮とし,伝灯大法師位として署名している。唐僧鑑真一行の渡航を実現させた普照の功績は特筆すべきものがあり,思託は《延暦僧録》の普照伝でその功に触れ,大唐学生普照第一とし,僧尼が日々に普照を礼拝してもなお報いることができないとたたえている。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「普照」の解説

普照 ふしょう

?-? 奈良時代の僧。
母は白猪(しらいの)与呂志の娘。天平(てんぴょう)5年(733)戒律の師をまねくため栄叡(えいえい)とともに唐(中国)にわたる。道璿(どうせん)に来日をすすめて日本におくり,天平勝宝5年(753)鑑真(がんじん)の来日を実現して帰国。東大寺に住し,天平宝字3年(759)旅人の便をはかるため路傍に果樹をうえるように上奏した。法名は業行とも。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「普照」の意味・わかりやすい解説

普照
ふしょう

奈良時代の法相宗の僧。日本に戒壇がまだ整わないので,天平5 (733) 年勅を奉じ栄叡とともに入唐して,受戒したのち,楊州大明寺で鑑真に渡来を請うた。帰朝後は東大寺で律を講じた。

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世界大百科事典(旧版)内の普照の言及

【並木】より

…市街地の場合は街路樹と呼ばれる。
[日本]
 奈良時代の759年(天平宝字3)に東大寺の普照の奏状により五畿七道の駅路の両側に果樹を植えさせ,木陰を旅人の休息場とし,木の実を食料とさせる官符が出ているのが街道の並木の始まりとされ,平安時代にも引き続き果樹が植えられている。戦国時代末には織田信長が1575年(天正3)に東海道と東山道に松や柳を植樹させ,上杉謙信,前田利長,加藤清正らも領内の街道に諸木を植えさせて街道の整備を行っている。…

【留学】より

…仲麻呂はついに帰国できなかったが,真備らは大量の書籍や楽器などを持ち帰り,唐の文化の本格的な摂取の段階に入った。学問僧のなかには,733年(天平5)に入唐した栄叡(ようえい),普照(ふしよう)らのように鑑真の来日に尽力したものもあった。 平安時代になると,804年(延暦23)の遣唐使に最澄空海が随行し,彼らの学んできた天台や密教は,日本的な仏教が生まれてくる母体となった。…

※「普照」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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