752年(天平勝宝4)4月9日に東大寺の盧舎(遮)那(るしやな)大仏像の完成を記念して行われた法要。大仏開眼供養会ともいう。開眼とは新造の彫像,鋳像,画像などに筆墨などで眼に点睛を加え,魂を入れる仏教儀式をいう。
743年(天平15)10月15日に聖武天皇によって《華厳経》による盧舎那大仏像の造立の詔が出された。その目的とするところは仏の力によって天下太平,動植物までも共栄せんことを祈ってのことであった。まず近江国紫香楽(信楽)(しがらき)の甲賀寺で造像の工事が始められ,当時庶民層に絶大な信頼を得ていた僧行基が弟子らを伴って勧進に赴いた。民衆に広く助力を求めて造寺造仏の完成をとげるという方法は,河内国智識寺を範としたもので,後世東大寺の再興には,しばしばこの方法が踏襲された。山間僻地の紫香楽での造像工事は,すでに翌年から火災が頻発し,地震が続発するなど不祥事件が起こり,ついに平城還都が断行された。そして大仏造立の事業は,平城京東郊の金鐘寺の寺地で再開されることになった。当寺はすでに大和国金光明寺に認定されていたが,《華厳経》の研究を行っていた寺であり,また寺地に巨像の鋳造に適した山がもとめられたからである。その工事は金光明寺造仏所から,のちの造東大寺司に発展した造寺司の手で進められ,長官には市原王,次官には佐伯今毛人が任ぜられ,幾多の危機と困難を克服して,747年9月から749年10月にかけ,8ヵ度の鋳継ぎにより5丈3尺5寸の巨像が完成した。仏体は約250t,蓮華座は約130tの銅を要したが,708年(和銅1)以来,律令政府によって蓄積されていた銅などが用いられ,詔にみえる〈国銅を尽くして〉の大工事であった。造像の指導的な立場にあったのは,大仏の相好や設計を行った大仏師国公(君)麻呂(国中公麻呂),鋳造を指揮監督した大鋳師高市大国,真麻呂や柿本男玉などである。この間元正上皇,僧行基は大仏の完成をみることなく物故していた。
塗金に用いる黄金の入手には苦慮していたが,749年2月に陸奥国小田郡(現,宮城県遠田郡涌谷町)より黄金産出の報が告げられ,4月1日に聖武天皇,光明皇后をはじめ百官が東大寺に詣で,日本最初の産金に対して,大仏の加護を謝す長文の宣命が左大臣橘諸兄により奉読された。ついで功臣,造寺関係者などにも官位の昇叙があり,歌人である越中国守大伴家持も《万葉集》にこのときの和歌をのこしている。加えてこのとき,年号は〈天平感宝〉という日本最初の複号年号に改められた。4月には観音,虚空蔵の両脇侍像の造像が開始され,閏5月に東大寺をはじめとする官大寺に絁,綿,布をはじめ,墾田が施入され,《華厳経》を根本聖典とし未来にわたって読誦すべき勅が出された。7月に至って安(阿)倍皇太子が即位(孝謙天皇),年号は〈天平勝宝〉と改元され,10月に大仏の鋳造は完成をみた。鋳造当初より託宣による助援をおしまなかった宇佐八幡大神の神輿は神主を伴って12月大仏を拝し,以後東大寺の守護神となったことは神仏習合の示現として史上有名である。鋳造の進捗とともに大仏殿の創建も行われ,六宗の厨子も殿内に安置された。
752年4月9日の法会には,天皇,上皇,皇太后以下多くの官人が参列し,1万人の僧尼を招いて盛大な開眼供養が行われた。開眼導師にはインドの帰化僧バラモン・ボジセンナ(菩提僊那(ぼだいせんな)),講師に隆尊,読師に延福,咒願師に唐僧道璿(どうせん)が起用され,行基の弟子景静は都講となり法会を総括した。ボジセンナの用いた筆墨は現に正倉院に伝わり,参集の人々とともに開眼に擬した開眼縷も伝わっている。殿前の会庭に設けられた舞台では,久米舞,楯伏舞,唐楽,唐散楽,高麗楽など,種々の芸能が演ぜられた。天平文化はまさに大仏鋳造と開眼供養によって昇華したといって過言ではない。
執筆者:堀池 春峰
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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…医師の父の跡を継げずに,中学時代から詩作をはじめ,同級の木下杢太郎と新詩社を経て,パンの会を作り,《スバル》《屋上庭園》に詩と戯曲を発表していたが,1910年発表の《歓楽の鬼》が自由劇場で上演され,劇作家の地位を築いた。イプセンの影響が顕著だが,15年にはチェーホフ的な味のある《飢渇》を発表,20年に5幕の大作史劇《大仏開眼》に仏師公麻呂と恋人葛城郎女(かつらぎのいらつめ)を主人公にした政治と芸術の葛藤を描き,好評を得た。芸術座,新劇協会,市村座に協力したが,34年に新協劇団幹事として参加,回想録《新劇の黎明》(1941)で知られるように,新劇界の長老として仰がれた。…
… それが聖武天皇の時代以後になると,深刻な社会不安を仏教にすがって切り抜けようとした結果,殺生戒にもとづいていっさいの殺生禁断,肉食禁制が布告されるようになった。745年(天平17)10月には以後3年間,752年(天平勝宝4)1月には1年間の期限で布告され,とくに大仏開眼を間近に控えた後者の場合は,それによって生計を失う漁民には家族1人当り1日2升のもみを給付するという条件までつけられていた。しかし,魚鳥まで含めた全面的な殺生禁断ができるはずはなく,実質は家畜の屠殺,食用を戒めるものにほかならなかった。…
※「大仏開眼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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