遠藤利貞 (えんどうとしさだ)
生没年:1843-1915(天保14-大正4)
《大日本数学史》の著者。幼名多喜之助,後に安司,杲三ともいう。号は初め春江,後に春峰。本姓は堀尾,遠藤家を継ぐ。伊勢の桑名藩士である。細井寧雄(1802-73・享和2-明治6)に師事し,数学を学ぶ。明治維新のときは幕府方につき,最後は上野の彰義隊に参加し,敗走する。後に桑名に幽閉される。許されて桑名藩学校の数学教師となる。洋算も学び,1875年には東京師範学校教師となり,珠算の教科書《算顆術授業書》(1878)を刊行する。これが日本で初めて数学の教授法を示した書である。77年の東京数学会社発足に参加した。そのとき,遠藤は和算がどんな内容をもつものかわからなくなるのは時間の問題だと感じ,以後は和算史の研究と著作に専念した。涙ぐましい努力の末,93年に原稿が完成し,菊池大麓,三井八郎右衛門らの援助により,96年《大日本数学史》として世に出た。日本で最初の科学史の専門書である。遠藤は熱血漢であったが,短気で雅量に欠け,人と争うことが多かった。貧困と家庭の不幸の中で和算史の研究に情熱を注いだ。没後,論争の相手であった三上義夫(1875-1950)により,遠藤の遺稿は《増修日本数学史》(1918)として刊行された。
執筆者:下平 和夫
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遠藤利貞
えんどうとしさだ
(1843?―1915)
明治時代の数学史家。伊勢(いせ)国(三重県)桑名の出身。本姓を堀尾といい、伊勢藩遠藤氏の養子となる。細井若狭(わかさ)について和算を学び、一時、桑名の藩校の数学教師にもなったことがある。1872年(明治5)東京に出て洋算を学び、同年に洋算の教師となった。以後、没するまで多くの学校で数学の教師として生活をたてる。1878年和算史の著述を志し、1893年に脱稿、1896年『大日本数学史』として出版された。彼はその後もこの書の増補改訂を続け、没後は三上義夫の編集で『増修日本数学史』として刊行され、1960年(昭和35)には平山諦(ひらやまあきら)(1904―1998)の編集で同書の第3版が発行された。
[大矢真一]
『三上義夫編『増修日本数学史』付録「故遠藤利貞翁略伝」(1960・恒星社厚生閣)』
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遠藤 利貞
エンドウ トシサダ
明治期の数学史家
- 生年
- 天保14年1月15日(1843年)
- 没年
- 大正4(1915)年4月20日
- 出生地
- 江戸
- 出身地
- 伊勢国(三重県)
- 旧姓(旧名)
- 堀尾
- 別名
- 号=春江,春峰
- 経歴
- 江戸に出て細井若狭に数学を学んだ。明治維新に彰義隊に参加。桑名藩の藩校で教えた後再び江戸に出て洋学を修めた。明治10年東京数学会社社員となるが、のち和算史編纂を決意。28年帝大理科大学で教え、和算書の収集に従事。39年から帝国学士院に勤め、和算の調査に当たった。著書に「大日本数学史」「増修日本数学史」など。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
遠藤利貞
没年:大正4.4.20(1915)
生年:天保14.1.15(1843.2.13)
明治期の和算史家。伊勢国(三重県)桑名藩士堀尾利見,理世子の子。江戸生まれ。若くして遠藤氏を継いだ。和田寧の高弟細井寧雄に師事して和算を修め,明治10(1877)年に東京数学会社会員となるが,和算の衰退を見るに忍びず和算史編纂を決意。この仕事が菊池大麓の目に留まり,理科大学,帝国学士院での和算史調査を任される。16年かけて編んだ『大日本数学史』(1896)は本邦初の本格的な科学史書となった。頑固一徹の人で,和算への情熱がこの偉業を成し遂げさせた。同書はのち三上義夫の編により『増修日本数学史』として刊行された。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
遠藤利貞 えんどう-としさだ
1843-1915 明治時代の和算史家。
天保(てんぽう)14年1月15日生まれ。伊勢(いせ)(三重県)桑名藩士。和田寧の弟子細井若狭に師事。維新後藩校でおしえた。のち洋算をまなび,東京師範などの教師となる。和算の衰退をうれえ,明治29年「大日本数学史」を刊行した。遺稿に三上義夫編「増修日本数学史」。大正4年4月20日死去。73歳。本姓は堀尾。号は春江,春峰。
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遠藤 利貞 (えんどう としさだ)
生年月日:1843年1月15日
明治時代の和算史家
1915年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の遠藤利貞の言及
【科学史】より
…それは一つには,和算という比較的輪郭も性格も明確な,しかも日本に独自といってよい知識体系が存在していたことにもよる。すでに遠藤利貞の《大日本数学史》などの仕事があったうえに,三上義夫のように当初から海外に発表の舞台を求めた数学史研究(《日本数学史》,D.E.スミスと共著)が花開いており,小倉金之助の一連の仕事も含めて,単に海外の学問の紹介ではなく,すでに,独自の内容をもつ研究が進められていた。また1910年代から科学啓蒙活動や科学論に対する関心が生まれ,啓蒙誌《現代之科学》が刊行(1913)されたり,田辺元の《科学概論》(1918)が現れ,22年のアインシュタインの来日によってこうした傾向は頂点を迎える。…
【和算】より
…その後の和算は数学史の一分野として研究されることになった。和田寧の孫弟子[遠藤利貞](1843‐1915)による《大日本数学史》(1896)が和算史の第一歩となった。遠藤の没後これを[三上義夫](1875‐1950)が増補訂正して《増修日本数学史》(1918)にまとめた。…
※「遠藤利貞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」