酒問屋(読み)さかどんや

精選版 日本国語大辞典 「酒問屋」の意味・読み・例文・類語

さか‐どんや【酒問屋】

  1. 〘 名詞 〙 酒を小売におろす店。さかどいや。
    1. [初出の実例]「酒問屋株譲渡」(出典:日本財政経済史料‐六・経済・貨幣・両替屋・文化七年(1810)一一月)

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改訂新版 世界大百科事典 「酒問屋」の意味・わかりやすい解説

酒問屋 (さかどいや)

江戸時代に発展した酒の配給に関与する問屋。ある限られた地方市場を販路とする地酒などは,造酒屋が店舗をかまえて小売もしているが,城下町をはじめ宿場町港町在郷町などでは造酒屋と小売酒屋のあいだに酒問屋が介在して,酒の販売を一手に引き受けていた。さらに江戸・大坂・京都などでは,卸売専門の駄売屋があって,造酒屋→酒問屋→駄売屋→小売酒屋という流通経路をとっていた。また酒問屋から駄売屋ないしは小売酒屋への仲介をする酒仲買人も存在した。

 酒問屋のなかで,もっとも規模の大きいのは江戸の酒問屋で,そこでは下り酒問屋と地廻り酒問屋とに分かれていた。前者は下り酒を専門とする問屋で,後者は関東諸国(いわゆる関八州)より送られてくる酒を売りさばく問屋であった。下り酒は上方の灘をはじめ伊丹・池田・伝法・兵庫などの摂津,それに泉州堺と,伊勢・美濃・尾張から送られてくる良酒で,18世紀末には江戸で消費される酒の9割が下り酒であった。下り酒問屋ははじめは日本橋付近にでき,1657年(明暦3)の大火後,霊岸島新川界隈に移転した。94年(元禄7)に江戸諸問屋が連合し十組問屋が結成されたとき,酒問屋も酒店組としてこれに加入している。当時の文豪井原西鶴が〈軒をならべて今の繁昌〉と描写した新川界隈には,瀬戸物町組30軒,茅場町組48軒,呉服町組34軒,中橋町組14軒の計126軒があり,さらにこの酒問屋と小売酒屋とのあいだに介在する酒仲買は42軒であった。

 酒問屋の商法は,上方酒造家=荷主からの一方的な委託販売で,問屋は酒荷を受け取って50日目に荷主へ内金として送金し,以後順次内金をいれて1年後に決済するための仕切がなされた。また酒荷代金の送金方法には,為登(のぼせ)と為替(かわせ)とがあった。為登は現金送金で,飛脚屋に依頼してなされたが,送金途中での危険もあり,近世中期以降は江戸と大坂との両替屋為替手形によって決済された。それだけ酒問屋と両替屋との関係は密接で,幕末には有力な下り酒問屋の鹿島清兵衛や中井新右衛門などは,両替屋も兼業している。酒問屋の経営は,荷主より委託された酒代金の6歩(6%)の問屋蔵敷口銭によったが,幕末には8歩に引き上げられた。また元禄期126軒を数えた下り酒問屋も以後減少し,下り酒問屋株が公認された1809年(文化6)には38軒に限定され,同時にこのとき1500両の冥加金を幕府に上納して,問屋株の固定化がはかられた。明治になって江戸下り酒問屋は東京下り酒問屋となり,北新川組・新川組・茅場町組の3組から構成され,1875年の問屋数は25軒であった。76年には東京下り酒問屋は東京酒問屋または甲問屋と称し,地廻り酒問屋は東京酒類問屋または乙問屋と改めた。1937年,両組合が合併して東京酒問屋組合が結成された。
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世界大百科事典(旧版)内の酒問屋の言及

【酒屋】より

…以後近世後期には商業的農業の展開と農村工業の発展に支えられて,地主制の進展とともに小作米を原料とする地主酒造業が広範に発達していった。一般に酒屋とは,狭義には造酒屋(つくりざかや)をさすが,広義には,造酒屋であって小売を兼業するものから,酒問屋(さかどいや)や小売を専業とするものまでを含めて総称する場合もある。概して灘地方(灘五郷)のような江戸積酒(下り酒)を主とする酒屋は,販売はもっぱら江戸下り酒問屋への依託販売に依存していた。…

※「酒問屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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