金倉寺(読み)こんぞうじ

日本歴史地名大系 「金倉寺」の解説

金倉寺
こんぞうじ

[現在地名]善通寺金蔵寺

金倉かなくら川の西側にある天台寺門宗の寺院。鶏足山宝幢院と号し、本尊薬師如来。四国霊場八十八ヵ所の第七六番札所で、御詠歌は「まことにも神仏僧をひらくれば真言加持のふしぎなりけり」。比叡山延暦寺別院として園城おんじよう(現大津市)を興し寺門派の祖となった智証大師円珍の誕生地といわれる。鶏足山金倉寺縁起によると、仁寿元年(八五一)円珍の父和気宅成はその父道善が建立した自在王堂を官寺とすることを奏請し、許されて田園三二町を賜り租税を免ぜられたという。この寺を道善の名をとって道善どうぜん寺と称した。天安二年(八五八)円珍が唐から帰国して同寺に逗留していた時、兄善甄が円珍に計画をたてさせて寺堂を新たにし、貞観三年(八六一)完成したという。「讃岐国名勝図会」はこのとき道善寺を金倉寺と改めたとする。寺名は寺の所在地が那珂なか金倉かなくら郷であることによる。縁起はこの改号を延長六年(九二八)とし、年次不明だが康正二年(一四五六)頃の作成と思われる金蔵寺縁起条書(案、金蔵寺文書)によれば、貞観年間円珍入京のとき金蔵寺となったというが、いずれの史料もその性質上確かなものとはいえない。

前掲縁起条書によると村上天皇の天暦年中(九四七―九五七)に賀茂御油田が寄進された。この御油田は三段で多度たどかも庄南方内(現仲多度郡多度津町)にあり、灯油本器五升が金蔵寺に納入されていたことが延文六年(一三六一)四月五日の時光請文(金蔵寺文書)によってわかる。建仁三年(一二〇三)金倉郷が園城寺に寄進されて金倉庄となるが、前掲縁起条書によると、このとき上金倉(金倉上庄)の一部が寺の敷地とされた。嘉慶二年(一三八八)一二月一日の寺領段銭請取状(金蔵寺文書)に「同上庄参分一、四十壱町五反半拾歩」とあるのがそれであろう。承久の乱に際し中立を保ったにもかかわらず小笠原二郎長(清か)が地頭に補せられ、正応六年(一二九三)に至って当寺衆徒の訴えにより地頭職が停止された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「金倉寺」の意味・わかりやすい解説

金倉寺
こんぞうじ

香川県善通寺(ぜんつうじ)市金蔵寺(こんぞうじ)町にある天台宗の寺。鶏足山(けいそくさん)宝幢院(ほうとういん)と号する。本尊は薬師如来(やくしにょらい)。四国八十八か所霊場第76番札所。714年(和銅7)に讃岐(さぬき)の豪族和気道善(わけどうぜん)が如意輪観音(かんのん)像を造立して自在王堂と称し、また道善寺ともよんだのに始まる。その孫広雄が智証(ちしょう)大師円珍で、彼が入寺して地名の金倉郷にちなんで金倉寺と改めた。歴代の天皇からも寺領が寄進され、中世を通じて繁栄した。しかし、鎌倉時代以降たびたび焼失し、一時は真言宗改宗。江戸時代になり天海が再興し、1651年(慶安4)に天台宗に復した。寺宝に鎌倉時代作の絹本着色智証大師像(国重要文化財)などがある。

[水谷 類]


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デジタル大辞泉プラス 「金倉寺」の解説

金倉(こんぞう)寺

香川県善通寺市にある寺院。天台寺門宗。山号は鶏足山、院号は宝幢(ほうどう)院。本尊は薬師如来。天台寺門宗の祖、智証大師(円珍)の生誕地とされる。沿革は不詳だが、縁起では円珍の父、和気道善が建立した寺が起源と伝わる。境内の訶利帝(かりてい)堂に、地元では「おかるてんさん」の名で親しまれている訶利帝母(かりていも)(鬼子母神)を祀り、子授けや安産の信仰を集める。四国八十八ヶ所霊場第76番札所。

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