平安初期の天台宗の僧。俗姓は和気(わけ)氏。讃岐(さぬき)国(香川県)那珂(なか)郡の人。母は佐伯(さえき)氏で、空海(くうかい)の姪(めい)の子といわれる。15歳のとき比叡山(ひえいざん)に登り、延暦寺座主(えんりゃくじざす)の義真(ぎしん)に就いて天台を学び、20歳のとき、菩薩戒(ぼさつかい)を受ける。以後、12年間籠山(ろうざん)して修行を続け、延暦寺の学頭となった。853年(仁寿3)8月9日、唐の商船に便乗して入唐(にっとう)、福州(福建省)連江県に到着すると、まず開元寺に入った。さらに12月13日に天台山国清寺(こくせいじ)に入り、物外(もつがい)(786/813―885)から天台止観(しかん)を聴講して200余巻の天台の章疏(しょうしょ)(注釈書)を得た。またここで同朋の円載(えんさい)(?―877)とも会った。855年(大中9)5月、長安に着いて青龍寺の法全(はっせん)(生没年不詳)から真言密教を学び、翌856年6月には、ふたたび天台山に帰った。各地で高僧に学んだ円珍は、858年6月、商人の李延孝(りえんこう)(?―877)の船で帰途につき、多数の仏典、仏具を持参して22日、大宰府(だざいふ)に到着した。帰国後、859年(貞観1)近江(おうみ)(滋賀県)三井(みい)の園城寺(おんじょうじ)に入り、868年には安慧(あんね)(794―868)の後を継いで延暦寺座主となった。ついで園城寺を賜ると、ここを天台の別院として伝法灌頂(でんぽうかんじょう)の道場とし、その教勢を高めた。以来、延暦寺を山門というのに対して園城寺を寺門といい、円珍の系統が代々別当となった。のちには円珍門徒は延暦寺と分かれて寺門派を形成し、円珍はその派祖と仰がれた。927年(延長5)に醍醐(だいご)天皇から智証(ちしょう)大師の諡号(しごう)を受けた。円珍は、入唐によって天台、真言をはじめ倶舎(くしゃ)、因明(いんみょう)、悉曇(しったん)(梵語(ぼんご)学)などを学び、440余部1000巻の典籍をもたらしたが、天台宗興隆に尽くした功績は大きく、また台密(たいみつ)(天台宗の密教)の充実と完成に努め、多数の経軌図像(きょうきずぞう)を請来(しょうらい)したことが注目される。著作には、『大日経指帰(だいにちきょうしいき)』1巻、『講演法華儀(ほっけぎ)』2巻、『授決集(じゅけつしゅう)』2巻、『法華論記』10巻など多数がある。
[池田魯參 2017年5月19日]
平安時代の天台宗の僧。延暦寺5代座主,寺門派の祖。智証大師という。讃岐国那珂郡に生まれる。俗姓は和気(わけ)氏,母は空海の姪。15歳のとき叔父の僧仁徳に伴われて比叡山に登り,義真の弟子となる。833年(天長10)得度受戒したが,この年,師の入滅にあう。義真の後継をめぐり,最澄の高弟と隙を生じ,義真の弟子円修らは山外に追われたが,円珍は比叡山にとどまり,籠山12年の修行に精進した。846年(承和13)推されて学頭となり,850年(嘉祥3)内供奉(ないぐぶ)十禅師に補された。このころから入唐求法(につとうぐほう)の志をもち,山王明神の霊告を得て,いよいよ決意を固め,851年(仁寿1)京都をたち,大宰府に向かった。853年唐の商人欽良暉(きんりようき)の船に乗って入唐。天台山の国清寺に至り,日本の留学僧円載に会う。翌年,禅林寺に参詣して聖跡を拝み,越州の開元寺で良諝(りようしよ)から天台宗の奥義を聞き,855年(唐の大中9)円載とともに長安におもむいた。青竜寺(しようりようじ)の法全(はつせん)から金剛界・胎蔵界および蘇悉地(そしつじ)の大法を授けられている。帰途ふたたび天台山に立ち寄り,国清寺に〈日本国大徳僧院〉を造り,留学僧の利便に供した。唐商李延孝の船にのって858年(天安2)帰朝。当時,政界では藤原良房・基経の父子が権勢をふるっていたが,円珍を厚く遇した。864年(貞観6)宮中の仁寿殿に胎蔵灌頂壇(かんぢようだん)を結び,清和天皇や良房ら30余人に灌頂を行う。866年良房は円珍を冷泉(れいぜい)院に住まわせて天皇の宝祚(ほうそ)を祈らせ,かつ娘の明子(染殿の大后)の護持僧とした。886年(仁和2)光孝天皇の病気平癒を祈り,その賞として円珍の奏請で天台宗年分度者2人が増加された。890年(寛平2)少僧都(しようそうず)に任ぜられ,翌年78歳をもって示寂。
円珍が唐より持ちかえった天台・密教をはじめ諸部の経典類は1000巻を超え,のちに唐の婺州(ぶしゆう)の李達に依頼して送られて来た一切経の欠本120余巻,僧三慧(さんね)を入唐させて捜写したもの340余巻あった。円珍はこれら経典類を近江の園城寺(おんじようじ)に唐房をたてて収蔵したという。教学的には,天台宗の密教化をいっそう深め,天台教学の依拠する《法華経》(顕教)と真言密教の依拠する《大日経》の融会(ゆうえ)を説き,顕密一致を論じている。主著は《法華論記》《授決集》《大毘盧遮那経指帰》など。なお927年(延長5)智証大師の諡号(しごう)が贈られている。
執筆者:中井 真孝
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814.2/3.15~891.10.29
智証(ちしょう)大師とも。平安前期の天台宗僧。俗姓和気(わけ)氏。空海の姪の子。讃岐国那珂郡生れ。義真(ぎしん)に師事して出家受戒。延暦寺真言学頭,ついで内供奉(ないぐぶ)十禅師となる。853年(仁寿3)入唐。天台山の物外(ぶつがい)・良諝(りょうしょ)に天台教観を学び,長安青竜寺の法全(はっせん),大興善寺の智慧輪(ちえりん)から密教をうけた。858年(天安2)帰国の際に善本の経典441部をもたらし,翌年園城寺に唐院を開創して収蔵。以後,同寺を円珍系の灌頂(かんじょう)道場として再興。天台宗義における密教の優位を唱えて台密(たいみつ)の充実・喧伝に努め,868年(貞観10)第5世天台座主,890年(寛平2)少僧都となる。著書「法華論記」「授決集」「大日経旨帰」「行歴抄」など多数。
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…寺の東方に井泉があり,天智・天武・持統3帝の産湯を汲んだので三(御)井寺とよぶという。859年(貞観1),この地を訪れた智証大師円珍が,檀越大友都堵牟麿(つとむまろ)と住僧教待の委託をうけ,当寺を再興。まず唐院を建てて唐より持ち帰った経論を収蔵した。…
…円珍の入唐旅行日録《在唐巡礼記》(《行歴記》ともいう)の抄録。1巻。…
…図像本をくりながら諸尊の修法を視覚的に体得する観法書であるため,《五部心観》と称される。これは滋賀円城寺に蔵され,円珍が入唐求法(852)の際,師の青竜寺の法全(はつせん)から授与された手中本であり(表題註記,奥書による),巻末に描かれた肖像の梵語には〈此の法は阿闍梨善無畏三蔵の所与なり〉,紙背には〈此無畏和上真也〉とあって,これが善無畏にもとづくことを示している。この時代の遺品は少なく,図像ののびやかな張りのある描線は晩唐風で,絵画史的に貴重な作品である。…
…空海と同時に入唐した最澄はやはり王羲之調ではあるが,爽快な運筆の名筆で空海と対照的である。 空海より約半世紀後の円珍の書状を見ると,細い墨線の筆触に柔らか味を増して,和様化が急激に進んだ書風である。また,嵯峨天皇より約1世紀を経た醍醐天皇には,《白氏文集》を大字で揮毫した巻物が遺存するが,草書の率意の書でまったく和風の線質となり,小野道風の《玉泉帖》に通ずるところが見え,和様書道の成立期にいたったことを物語っている。…
…良忍は1109年(天仁2)京都大原に来迎院を建立し,天台声明の中心は爾来大原に移る。なお853年(仁寿3)に入唐した円珍の系統は延暦寺から離れて園城(おんじよう)寺を中心として独立するが,声明も独自の発達を遂げ,大原を中心とする大原流声明に対して寺門(じもん)流声明の伝統が作られた。天台,真言両声明は体系的な音楽理論をもって発展し,奈良声明あるいは鎌倉以後の新仏教の声明に影響を及ぼした。…
…恵運(842‐847年在唐)は温州,五台山,長安に赴き220巻の経典(そのうち76巻は新請来)をもたらしている。円珍(853‐858年在唐)には長安,天台山で求得した772巻の経典,梵夾,法具などの〈国清寺求法目録〉,福州から台州の間に求得した経典,外書を記載した〈福州温州台州求得目録〉,福州開元寺で求得した156巻の経典,梵夾の目録,青竜寺で求得した経典115巻,曼荼羅,法具の目録で師法全の証明の加えられている〈青竜寺求法目録〉の4種のほか,これらを網羅して計1000巻,法具16種を記載した総目録の5通があり,いずれも原本が園城寺に伝えられる。宗叡(862‐865年在唐)も青竜寺法全から受法し,143巻の聖教,図像,舎利,法具のほかに暦書,木版の辞書等をその目録に記載し先人請来以外の新しいもののみを掲載したことを強調している。…
…9世紀の初めに,伝教大師最澄が入唐し,智顗より7代目の道邃と行満について宗旨をうけ,比叡山に延暦寺を創して日本天台をひらくが,最澄は,天台法華宗のみならず,達麿系の禅,円頓戒,密教という,同時代の中国仏教をあわせて,奈良仏教に対抗する新仏教運動の根拠としたため,日本天台は中国のそれとかなりちがったものとなる。とくに密教を重視する後継者によって,智証大師円珍を祖とする園城寺が独立し,天台密教の特色を発揮する一方,鎌倉時代になると浄土宗,禅宗,日蓮宗など,新仏教の独立をみるのは,いずれも日本天台の特色である。 智顗の仕事は,《法華経》を軸とする教相判釈(きようそうはんじやく)と,止観の体系を完成させたことにある。…
… 遣唐使が派遣されている期間には,留学生は遣唐使に従って渡唐したが,838年(承和5),最後の渡唐となった遣唐使に随行した円仁の後は,唐人の商船によって入唐する僧がたくさんあらわれた。円珍もその一人である。このころには,ひんぱんに商船が往来するようになったので,短期間に何回も渡唐した僧もいた。…
※「円珍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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