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金允植 きん いんしょく

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

金允植 きん-いんしょく

キム-ユンシク

金允植 キム-ユンシク

1835-1922 朝鮮王朝の政治家。
憲宗元年生まれ。1894年金弘集(キム-ホンジプ)内閣の外部大臣。1896年親露政権が成立すると親日派として済州島に流刑。のち復帰し,韓国併合の際に日本の子爵をさずけられるが,1919年の三・一独立運動に関係して爵位をうばわれた。漢学者として知られ,1915年「雲養集」で日本の学士院賞。1922年1月22日死去。88歳。号は雲養。

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百科事典マイペディアの解説

金允植【きんいんしょく】

韓国の文学者,批評家。ソウル大国語国文科を卒業する。ソウル大教授。精密な論理,批評理論,広い視野と探究精神によって,韓国近代文学史と批評史を確立した文学者,文学批評家。

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世界大百科事典 第2版の解説

きんいんしょく【金允植 Kim Yun‐sik】

1841‐1920
朝鮮,李朝末期の政治家,漢学者。字は洵卿,号は雲養。青風の人。朴珪寿の門下で開化思想に傾倒,穏健的開化派の中心人物。1874年科挙の文科に及第。94‐95年の甲午改革当時は金弘集内閣の外部大臣として活躍,96年2月の同内閣崩壊後には済州島に流配。日韓併合のとき子爵をうけたが,1919年三・一独立運動に同調して爵位を返上。李朝末期屈指の漢学者で著書に《雲養集》《陰晴史》などがある。【姜 在 彦】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

金允植
きんいんしょく / キムユンシク
(1835―1922)

朝鮮、李朝(りちょう)末期の政治家。字(あざな)は洵卿(じゅんけい)、号は雲養(うんよう)。清風の人。政治家・思想家の朴珪寿(ぼくけいじゅ)と兪(ゆしんかん)に学び、1874年に科挙に及第した。1881年に領選使として天津(てんしん)に派遣されて以降、政府の要職につき、清(しん)との関係を基軸に開国政策を進めた。1887年から6年間、(べんせん)郡に流配されたが、日清戦争後ふたたび登用されて金弘集(きんこうしゅう)政権の外務大臣を務めた。1896年2月の露館播遷(ろかんばんせん)(国王の高宗と王世子が王宮を出て、ソウルのロシア公使館に翌年2月まで移った事件)によって同政権が倒されると、1898年から9年間、済州島と智(ち)島に流配された。その後、帝室制度局総裁、中枢院議長などを歴任し、韓国併合の際に子爵を授けられ、1915年には学士院賞を与えられた。民族運動にも畿湖(きこ)学会会長、興士団団長、教育倶楽部(くらぶ)部長などとしてかかわった。三・一独立運動に際しては日本政府に独立を求める長書を送って爵位を剥奪(はくだつ)された。著書に『雲養集』『雲養続集』『陰晴史』『続陰晴史』などがある。[原田 環]

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