日本大百科全書(ニッポニカ) 「浜口雄幸内閣」の意味・わかりやすい解説
浜口雄幸内閣
はまぐちおさちないかく
(1929.7.2~1931.4.14 昭和4~6)
張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件の処理の不手際から総辞職を余儀なくされた田中義一(たなかぎいち)政友会内閣にかわって成立した、浜口雄幸を首班とする民政党内閣。成立直後に協調外交、金解禁、財政緊縮、産業合理化などを主要な内容とする十大政綱を発表し、内閣の基本政策を明らかにした。長い不況の打開策として財界からの要請が高まっていた金解禁を実施するため、井上準之助(いのうえじゅんのすけ)蔵相のもとで財政緊縮、産業合理化を推進し、1930年1月11日金解禁を断行した。同月議会を解散し、2月に総選挙を行った結果、民政党は圧倒的な勝利を収めた。だが金解禁の実施は、1929年10月アメリカに始まった世界大恐慌の影響をまともに受けて日本経済をさらに深刻な不況に追いやることになった。物価の暴落、国際収支の悪化、鉱工業生産の減少によって中小企業の倒産が続出し、大量の失業者が生み出され、国民生活は破綻(はたん)に瀕(ひん)した。なかでも農産物価格の異常な暴落による農民の窮乏は農村を悲惨な状況に追いやった。政府は恐慌対策として産業合理化をさらに推進し、カルテルの拡大・強化を進めた。この独占資本の強化拡大政策は社会的矛盾をいっそう拡大し、労働・農民運動を激化させた。
他方ふたたび外相に就任した幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)は、前内閣によって極度に悪化させられた対中国関係の改善とイギリス、アメリカとの協調を課題として第二次幣原外交を展開していった。1930年1月、補助艦制限協定の締結を目ざすロンドン海軍軍縮会議に若槻礼次郎(わかつきれいじろう)を首席とする全権団を派遣した。対米7割を固執する海軍軍令部の強硬な主張のため、アメリカとの交渉は難航したが、財政的にも外交的にもあくまで協定成立を望む政府首脳は、海軍軍令部の反対を押し切り、日米妥協案を受け入れ、4月22日ロンドン海軍条約は調印された。条約調印後の第58特別議会において、政友会は、兵力量の最終的な決定権は統帥部側にあるとして、いわゆる統帥権干犯論を主張し激しい政府攻撃を展開し、海軍内部にくすぶる不満に火をつけ、軍人・右翼の統帥権干犯論を勢いづけた。枢密院での条約批准は、民政党内閣に反感を抱く平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)副議長、伊東巳代治(いとうみよじ)顧問官らの反対によって難航したが、元老西園寺公望(さいおんじきんもち)の強い後押しを受けてなんとか切り抜けた。
だが条約成立によって期待された国民の負担軽減は、海軍が条約承認とひきかえに約束させた海軍補充計画によって果たされなかった。同年11月14日浜口首相は東京駅で統帥権干犯論に扇動された右翼青年佐郷屋留雄(さごうやとめお)に狙撃(そげき)され重傷を負った。幣原外相が首相臨時代理に就任し、続いて開かれた第59議会に臨んだが、首相の病状が悪化したため、1931年4月13日浜口内閣は総辞職し、翌日第二次若槻礼次郎内閣が発足した。
[芳井研一]
『川田稔著『激動昭和と浜口雄幸』(2004・吉川弘文館)』