中華民国陸海軍大元帥張作霖が関東軍高級参謀河本(こうもと)大作大佐の謀略により爆殺された事件。1928年5月国民革命軍の北伐が北京に迫り,奉天軍の敗色が濃厚となると,関東軍ではこの際武力を行使して張を下野させ,新政権を樹立し,中国の東北(東三省,満州)を中国から独立させようと図り,錦州方面へ出動する態勢をとった。しかし田中義一首相はなお張を利用する方針をとり,張にたいし戦わずに満州に引き揚げるよう勧告する一方,関東軍の武力行使に承認をあたえなかった。張は国民革命軍との抗戦を断念し,6月3日京奉線の特別列車で北京を退去,奉天に向かった。関東軍の河本は満州制圧の好機が去ることに焦慮し,張を謀殺して武力発動のきっかけを作ろうと画策した。河本の指示で,独立守備隊の東宮鉄男大尉が指揮をとり,瀋陽駅のすこし手前で京奉線と交差する満鉄線の陸橋付近に工兵隊の手で爆薬をしかけ,6月4日午前5時23分そこへさしかかった張の特別列車を爆破した。東宮は雇い入れてあった中国人苦力(クーリー)2名を殺し,国民革命軍の密書をもたせ,彼らの犯行であるように装った。張は重傷を負って間もなく死亡,同乗の呉俊陞(黒竜江省督軍)も爆死した。河本は爆破の混乱に乗じて武力衝突をひきおこすつもりであったが,斎藤恒関東軍参謀長らは河本の計画を知らなかったため関東軍を出動させず,奉天軍側も挑発にのらなかったので,河本の計画は不発に終わった。しかも父作霖のあとをついだ張学良は,北伐を完了した蔣介石と和解し,同年末の東三省の易幟により国民政府に合流した。日本国内では事件の真相は秘密とされたが,翌29年1月,第56議会で野党の民政党が政府を追及し,〈満州某重大事件〉として問題になった。田中首相ははじめ元老西園寺公望らの要求で真相を公表するつもりであったが,陸軍の強い反対で関係者の行政処分にとどめ,天皇から食言を叱責(しつせき)され,29年7月内閣総辞職した。
事件の責任がうやむやにされたことは,関東軍幕僚に満州事変の謀略を促す一因となった。
執筆者:江口 圭一
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中華民国陸海軍大元帥張作霖が、関東軍高級参謀河本大作(こうもとだいさく)大佐の謀略により爆殺された事件。1928年(昭和3)国民革命軍の北伐が北京(ペキン)に迫ったため、張は6月3日京奉(けいほう)線の特別列車で北京を退去し、奉天(ほうてん)(現瀋陽(しんよう))に向かった。関東軍は、この機会に張を下野させ、満州(東三省)を中国から独立させようと謀り、錦州(きんしゅう)方面に出動する態勢をとったが、田中義一(ぎいち)首相は武力行使を承認しなかった。このため河本は出動の口実を得ようと、4日早朝、奉天近郊で張の列車を爆破した。張は爆死したが、関東軍は事前の打合せが不十分で出動しなかった。真相は日本国民に秘匿されたが、満州某重大事件として疑惑をよび、田中内閣の倒壊を招いた。
[江口圭一]
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