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鈴木重胤 すずき しげたね

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美術人名辞典の解説

鈴木重胤

幕末の国学者。淡路生。幼名は雄三郎、通称は勝左衛門、号に橿迺舎・厳橿本・府生等。大国隆正に師事し、頭角を現した。著に『延喜式祝詞講義』等。文久3年(1863)歿、51才。

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デジタル大辞泉の解説

すずき‐しげたね【鈴木重胤】

[1812~1863]江戸末期の国学者。淡路の人。号、橿廼家(かしのや)。大国隆正に学ぶ。平田篤胤(ひらたあつたね)没後の門人。諸国を遊歴して神道を説き、江戸で暗殺された。著「延喜式祝詞講義」「日本書紀伝」など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

鈴木重胤 すずき-しげたね

1812-1863 江戸時代後期の国学者。
文化9年5月5日生まれ。はじめ大国隆正にまなび,平田篤胤(あつたね)の没後の門人となる。後年篤胤学批判をつよめ,安政5年平田銕胤(かねたね)に破門される。文久3年8月15日暗殺された。52歳。淡路(あわじ)(兵庫県)出身。本姓は穂積。通称は勝左衛門。号は橿廼舎(かしのや),厳橿本(いつかしがもと)など。著作に「延喜式祝詞(えんぎしきのりと)講義」,「日本書紀伝」(未完)など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

鈴木重胤

没年:文久3.8.15(1863.9.27)
生年:文化9.5.5(1812.6.13)
幕末の国学者。淡路国(兵庫県)津名郡仁井村(兵庫県津名郡北淡町)の庄屋・穂積重威・麗子の5男。幼名雄三郎,のち勝左衛門と称した。号は橿屋,厳橿本など。文政8(1825)年,学問の階梯を示した父に死なれ,家運回復のため大坂へ商業見習いに出たが,向学心が募るまま,天保3(1832)年江戸在住の平田篤胤へ入門名簿を送った。5年には大坂で大国隆正にも入門。10年,大坂で和歌を教授。弘化1(1844)年以降江戸に住み,平田学の継承に努めたが,『延喜式祝詞講義』(全15巻,1853年成)や『日本書紀伝』(全30巻)の古代史注釈に専念するようになってから,平田家との間に軋轢が生じ,安政5(1858)年断交。畢生の大著『日本書紀伝』未完成のまま,江戸小梅の自宅で刺客の凶刃に倒れた。当時から,廃帝の故事を調査したため,尊皇派の報復がささやかれたが,未詳。<著作>『鈴木重胤全集』全13巻<参考文献>谷省吾『鈴木重胤の研究』(神道史研究叢書4)

(ロバート・キャンベル)

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世界大百科事典 第2版の解説

すずきしげたね【鈴木重胤】

1812‐63(文化9‐文久3)
江戸後期の国学者。通称勝左衛門。号は橿廼舎,厳橿本。淡路国仁井村の庄屋の家に生まれる。父の指導により国学を志す。大国隆正に学び,さらに1843年(天保14)秋田に平田篤胤をたずねるが,死去していたので,没後の門人となる。《延喜式祝詞講義》と《日本書紀》神代巻の注釈《日本書紀伝》(未完)の二大著述があり,精細な考証を特徴とする。江戸本所小梅の自宅で,刺客におそわれて死す。【平野 仁啓】

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大辞林 第三版の解説

すずきしげたね【鈴木重胤】

1812~1863) 江戸末期の国学者。号は橿廼家かしのや。淡路の人。平田篤胤に私淑し、篤胤学の継承・大成につくす。後年、日本書紀の注釈に傾注した。何者かに暗殺された。著「日本書紀伝」「延喜式祝詞講義」「世継草」「詞の捷径」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

鈴木重胤
すずきしげたね

[生]文化9(1812).5. 淡路
[没]文久3(1863).8.15. 江戸
江戸時代後期の国学者。幼名雄三郎。通称勝右衛門,府生,一平。号は厳橿本 (いつかしもと) ,橿廼舎 (かしのや) ,柱州。姓は穂積。家は代々庄屋。父は重威,母は麗子。 14歳頃から,大坂鴻池家,神戸村橋本家に寄寓し,商業見習いをし,諸学を習得。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

鈴木重胤
すずきしげたね
(1812―1863)

江戸末期の国学者。幼名雄三郎、通称勝左衛門。号橿屋(かしのや)、のち厳橿本(いつかしがもと)など。文化(ぶんか)9年5月5日生まれ。淡路国津名(つな)郡仁井(にい)村(兵庫県淡路(あわじ)市)の出。生家は代々、里長で、父重威(しげたけ)、母岡本麗子(うらこ)の二男。大坂鴻池(こうのいけ)、神戸橋本家に寄寓(きぐう)し諸芸を習い、父の影響で国学に志し、21歳平田篤胤(あつたね)に入門名簿を送り、23歳大国隆正(おおくにたかまさ)門に入り、32歳秋田に赴いたが、篤胤没後で、大坂のち江戸日本橋村松町、さらに向島小梅(むこうじまこうめ)に住み、諸国を旅して神道(しんとう)を中心とする学風を広め尊攘(そんじょう)派と交流したが、文久(ぶんきゅう)3年8月15日小梅の自宅で刺客に暗殺された。52歳。墓所は東京都杉並区和田長延寺。
 平田派から別れ、『延喜式祝詞(えんぎしきのりと)講義』『中臣寿詞(なかとみのよごと)講義』のほか、未完の大著『日本書紀伝』は客観性に欠く点もあるが、注釈詳細である。和歌の編集もあり、小論『世継草(よつぎぐさ)』はじめ日記、紀行文も多い。[林 勉]
『樹下快淳編『鈴木重胤全集』全13巻(1937~44・鈴木重胤先生学徳顕揚会) ▽高階成章校『国学大系21 鈴木重胤集』(1944・地平社) ▽芳賀登・松本三之介注『世継草』(『日本思想大系51』所収・1971・岩波書店) ▽樹下快淳著『贈正五位鈴木重胤真人物』(1931・遺風顕彰会) ▽星川清民著『鈴木重胤伝附門人伝』(1943・言霊書房) ▽谷省吾著『鈴木重胤の研究』(1968・神道史学会)』

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世界大百科事典内の鈴木重胤の言及

【日本書紀伝】より

…注釈書。鈴木重胤著。1862年(文久2)30巻まで成る(未完)。…

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