コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

大国隆正 おおくに たかまさ

9件 の用語解説(大国隆正の意味・用語解説を検索)

美術人名辞典の解説

大国隆正

幕末・維新の国学者・石見津和野藩士。姓は野々口、のち大国。名は秀文・秀清、字は子蝶、号に佐紀之屋・葵園等。平田篤胤に国学を、昌平黌で儒学を、村田春門に音韻学を学び、洋学もおさめる。京都に家塾報本学舎を開き、津和野藩校養老館教授となる。維新後は神祗局諮問役・宣教師御用掛などを務めた。著書多数。明治4年(1871)歿、80才。

出典|(株)思文閣
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

おおくに‐たかまさ〔おほくに‐〕【大国隆正】

[1792~1871]江戸末期の国学者。石見(いわみ)の津和野藩士。江戸の生まれ。姓は今井、のち野之口。平田篤胤(ひらたあつたね)国学昌平坂学問所古賀精里(こがせいり)儒学を学んだ後、文人墨客と交わる。また、村田春門(むらたはるかど)音韻学を学び、長崎に遊学し洋学を修めた。著「六句歌体弁」「古伝通解」など。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

大国隆正【おおくにたかまさ】

幕末,明治初期の国学者。石見(いわみ)国津和野(つわの)藩士今井秀馨(ひでか)の子で,のち野之口(ののぐち)と改め,晩年大国と称す。平田篤胤(あつたね)の門人。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

大国隆正 おおくに-たかまさ

1793*-1871 江戸後期-明治時代の国学者。
寛政4年11月29日生まれ。石見(いわみ)(島根県)津和野藩士。平田篤胤(あつたね)の門にはいり,昌平黌(しょうへいこう)で儒学を,村田春門(はるかど)に国学をまなぶ。文政12年脱藩し,京都,大坂でおしえる。嘉永(かえい)4年帰藩し藩校養老館教授となった。明治4年8月17日死去。80歳。姓ははじめ今井,野之口。名ははじめ秀文,秀清。字(あざな)は子蝶。通称は仲衛,一造。号は葵園など。著作に「古伝通解」「本学挙要」など。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

大国隆正

没年:明治4.8.17(1871.10.1)
生年:寛政4.11.29(1793.1.11)
幕末の国学者。名は隆正,秀文,秀清,字は子蝶,通称は一造,匠作,仲衛など,号を葵園,佐紀乃屋などという。津和野(山口県)藩士今井秀馨の子として江戸藩邸生まれる。文化3(1806)年平田篤胤門に入り,また昌平黌にも入学し舎長となるが,同7年に退塾。この間,画を長島藩主増山雪斎に従って戴雪と号したり,菊池五山らと詩書の交わりを持つ。次いで村田春門に教えを受け宣長学を考究。文政1(1818)年には長崎に遊学して洋書や梵書を繙き,中国書法を体得。東帰後は翻って,皇朝学にいそしんだ。藩の大納戸武具役になるが学への志捨て難く同12年に脱藩。姓を今井から野之口に改める。天保5(1834)年大火で焼け出されて上方へ移住。以後小野藩,姫路藩,福山藩に賓師として教授し,嘉永4(1851)年津和野に復籍。藩校養老館教授として国学をもって本学とすべきを上申し認可される。その後は江戸・京都・津和野間に奔走し,水戸の徳川斉昭に会見したりしながら列強のアジア進出を痛感,儒者らの海防論に比すべき独自の尊皇攘夷論を,天皇万国総帝説を主軸として展開した。文久2(1862)年には石見国に大国主命の古跡をみつけて神社を復興し,自ら大国と改姓。慶応3(1867)年にはグロチウスの『万国公法』への批判書『新真公法論』を著す。維新後は政府の宣教師御用掛としても働き,東京にて没。国学史上の四大人(春満,真淵,宣長,篤胤)観を確立したのも彼だが,これはむしろ本居派・平田派のエピゴーネンを批判する方便ともいえる。著作は『鼻くらべのさうし』『本学挙要』『学統弁論』など多数。<著作>『大国隆正全集』全7巻<参考文献>大崎勝澄『大国隆正』,芳賀登ほか編『平田篤胤・伴信友・大国隆正』(日本思想大系)

(宮崎修多)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

おおくにたかまさ【大国隆正】

1792‐1871(寛政4‐明治4)
江戸末期の国学者。津和野藩士今井秀馨の子。はじめ名は秀文,のち秀清,匠作などと改める。通称仲衛。号は如意山人,真瓊園(まにぞの)など。氏も中ごろ今井から野之口に改め晩年は大国と称する。国学を平田篤胤,音韻学を村田春門に学び,また,西洋の理学にも関心をもった。その学問を本教本学といい,京都に報本学舎を開く。また招かれて播磨小野藩,姫路藩,福山藩でも教授。明治維新に際し,国学の理論的指導者として活躍。福羽美静(ふくばびせい),玉松操は彼の門人である。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

おおくにたかまさ【大国隆正】

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大国隆正
おおくにたかまさ

[生]寛政4(1792).11.29. 江戸
[没]明治4(1871).8.17. 東京
江戸時代末期の国学者。津和野藩士今井秀馨の子。 16歳で平田篤胤の門人となり,また古賀精里に儒学を,村田春海に音韻学を学ぶ。のち,藩の承認を得て長崎に遊学,洋学をも学んだ。帰国後,脱藩して野々口氏と称し,大坂に出,京都に報本学舎を開いて書を講じた。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大国隆正
おおくにたかまさ
(1792―1871)

幕末維新期の国学者。津和野(つわの)藩士。寛政(かんせい)4年11月29日、江戸藩邸に生まれる。佐紀乃屋(さきのや)と号す。初め平田篤胤(ひらたあつたね)、村田春門(むらたしゅんもん)(1765―1836)に国学を学び、また昌平黌(しょうへいこう)に入る。のち脱藩、尊王敬神と誠(まこと)を核とする教えを説き、それを「本教」「本学」と名づけて京坂の地に講じ、名声を得た。後年、津和野藩に復籍し、維新後は神祇(じんぎ)事務局権判事(ごんのはんじ)を務め、旧藩主亀井茲監(かめいこれみ)らとともに、神仏分離や廃仏毀釈(きしゃく)などの神道主義を指導し、明治初年の神祇行政に多大の影響を与えた。明治4年8月17日80歳で没す。墓所は東京・赤坂霊南坂の陽泉寺。『本学挙要』など著書多数。[高橋美由紀]
『『大国隆正全集』全7巻(1937~1939・有光社/増補復刻版・2001・国書刊行会) ▽『日本思想大系50 平田篤胤・伴信友・大国隆正』(1973・岩波書店) ▽岡田実著『大国隆正』(1944・地人書館)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

大国隆正の関連キーワード青木永古秋元安民生田萬関常明鍋島誠岸誠国学者加藤達村田良穂吉田璞堂

今日のキーワード

大統領補佐官

各種政策の立案その他に関し,側近として大統領に助言する役職だが,実質上はブレーン,顧問として多面的な役割を担う。憲法で定められた唯一の行政責任者である合衆国大統領は,強大な権力を持つにもかかわらず,議...

続きを読む

コトバンク for iPhone