朝日日本歴史人物事典 「鈴木馬左也」の解説
鈴木馬左也
生年:文久1.2.24(1861.4.3)
明治大正時代の実業家。日向国高鍋藩(宮崎県高鍋町)の家老水筑(のち秋月)種節の4男として同地に生まれる。母は久子。外交官秋月左都夫は実兄。明治2(1869)年に母の実家鈴木家を継ぐ。20年帝大法科大学を卒業後内務省に入り,愛媛県,大阪府,岐阜県の書記官などを歴任し,27年農商務省参事官兼特許局審判官に転任。この間愛媛県,大阪府在職時から住友家の知遇を得て,29年求めにより辞官して住友本店に入り,副支配人となる。欧米視察ののち31年に理事,翌年別子鉱業所支配人を兼任して,同年に起こった風水害の事後処理や煙害問題の対策に当たった。35年に本店支配人に転じ,37年伊庭貞剛のあとを承けて総理事に就任した。以来死の直前に至るまでその職にあって,家長住友吉左衛門友純を補佐して住友の全事業を統轄した。従来の鉱山,伸銅,鋳鋼,銀行,倉庫に加え,林業,肥料製造,電線製造,電力などに経営拡大を図ったが,事業の中心はあくまで重化学工業などの製造業であって,第1次大戦後一部で期待された貿易商社設立には反対の立場を堅持した。42年には住友本店を住友総本店と改称したが,事業の多角化とともに組織の近代化や統轄機関の整備が必要となり,個人経営の総本店は大正10(1921)年に住友合資会社へ改組された。人材育成にも熱心で,主に官界から有用な人材を迎え入れるとともに,大学,専門学校新卒者の採用を積極的に行い,独身寮の整備や参禅修行を通した社員の精神教育にも意を用いた。鈴木の人格,気質は参禅修行を通して培われたといわれ,住友内外の人々と摂心会を起こして修養に努め,晩年には茶隴山道場を設け精進の場とした。<参考文献>鈴木馬左也翁伝記編纂会編『鈴木馬左也』
(安国良一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報