鈴木馬左也
すずきまさや
(1861―1922)
明治・大正期の住友財閥指導者。秋月節郎の四男として日向国(ひゅうがのくに)(宮崎県)高鍋(たかなべ)に生まれる。鈴木來助の跡を相続して鈴木姓となる。外交官秋月左都夫の弟。1894年(明治27)東京帝国大学法科大学を卒業、内務官僚となり愛媛県、大阪府の参事官を歴任、さらに農商務省参事官に転じた。1896年伊庭貞剛(いばさだたけ)の招きで住友に入り、ただちに住友本店副支配人、欧米外遊後に別子鉱業所支配人、理事を経て、1904年(明治37)伊庭の後を継いで総理事に進んだ。以後その職にあること18年、その間住友の事業は、別子鉱山、銀行から石炭、伸銅、製鋼、電線、倉庫へと多角化しつつ拡大し、三井、三菱(みつびし)に次ぐ大財閥の地位を得た。反面、鈴木ワンマン体制があまりに長すぎ、人事の停滞を招いた。晩年の1921年(大正10)2月個人経営の住友総本店を住友合資会社に改組、財閥組織を確立したが、翌年病気に倒れて総理事を辞任。まもなく没した。
[麻島昭一]
『鈴木馬左也翁伝記編纂委員会編・刊『鈴木馬左也』(1961)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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鈴木 馬左也
スズキ マサヤ
明治・大正期の実業家 住友総本店総理事。
- 生年
- 文久1年2月24日(1861年)
- 没年
- 大正11(1922)年12月25日
- 出生地
- 日向国高鍋(宮崎県児湯郡高鍋町)
- 旧姓(旧名)
- 秋月
- 学歴〔年〕
- 帝大法科大学(現・東大法学部)〔明治20年〕卒
- 経歴
- 明治20年内務省に入省。愛媛県、大阪府、岐阜県の書記官、農商務省の参事官を歴任後、29年住友本店に入る。31年理事、32年別子鉱業所支配人兼任、35年本店支配人を経て、37年総理事に就任。以来19年にわたって住友グループに君臨、経営組織の改革に尽力した。この間、42年に住友本店を住友総本店に改称、大正10年住友合資会社に改組された。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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鈴木馬左也
すずきまさや
[生]文久1(1861).2.24. 宮崎
[没]1912.12.25. 大阪
明治・大正期の実業家,住友財閥の指導者。父は高鍋藩士。少年時代長崎で英語を学び,1887年東京帝国大学を卒業,内務省,農商務省に勤めたのち,伊庭貞剛 (当時の住友総理事) に見込まれて 96年住友本店に入る。 1904年総理事となり,以後 25年間にわたって住友財閥の全事業を統轄した。彼は住友の諸事業を独立の会社に改組し,能力によって人材を抜擢するなど,住友の組織と経営の近代化を遂行した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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鈴木馬左也 すずき-まさや
1861-1922 明治-大正時代の実業家。
文久元年2月24日生まれ。秋月左都夫(さつお)の弟。鈴木来助の跡をつぐ。内務省につとめ,明治27年農商務省参事官。29年伊庭貞剛(いば-さだたけ)にまねかれ住友本店にはいる。37年総理事となり,事業を拡大,発展させた。大正11年12月25日死去。62歳。日向(ひゅうが)(宮崎県)出身。帝国大学卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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鈴木 馬左也 (すずき まさや)
生年月日:1861年2月24日
明治時代;大正時代の官僚
1922年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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